暗くて明るい南国旅行記、ここ最近の親族ストレスにもういいかな、と思えた話 [まじめに][介護、看取り]

<ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹>

えー2022年のお正月記事を皮切りに、親族ストレスについてちょいちょい書いてきてしまいましたが。それがね、この夏の旅行中に、もういいかな、と思えるようになりまして。
今回はそのご報告というか備忘録記事です。暗めの旅行記のようなもの(暗めのかよ)。や、私にとっては久々の清々しさだったんですけども。

もしかして2年ぶり?に、だいぶ気持ちに整理がついた気がしています。
日本より赤道に近く日が長いので、夕方という時刻の割には奇妙に明るい国の、ホテルの一室で。まるで村上春樹。

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ちびちび書いてきてしまったけども、まあ、親族ストレスって主にオット弟(次男)についてでして。その、現在海外移住中の次男家族の元へ、長男であるオット一家(我が家)と妹一家で、子供たちがもし中受するならぼちぼち夏休みも忙しくなるし、今のうちにみんなで遊びに行こうという運びになりまして。しかしいかんせん私としては旅行前も憂鬱だったし、旅行中も次男は相変わらずなアレだったので憂鬱な出来事もあったんですけども。

基本的には次男家族の住むマンションでぎゅうぎゅうと寝泊まりさせてもらって、中日には近くのホテルに全員で宿泊することに。旅行好きの妹旦那くんが子供たち向けのレジャーを中心にあれこれ計画を立ててくれてかなりアクティブに過ごし。そしたら、途中妹の子が熱を出してしまい。

じゃあ午後の出かける予定をやめて部屋でお夕飯にしようか、とオットと妹たちとでデリバリーやホテルのルームサービスの情報を共有しあっていた流れをぶった斬って次男から「今すぐ予約すれば夕飯付きのショーを見られる」とリンクが送られてきて。オットに電話もかけてきて予約を急かされ。

私はそんなすぐに切り替えられず嫌な気持ちになったのもあり、活動しすぎで疲れていたのもあり、私だけ行かないことにしようか迷ったりもしてしまい。オットからも判断を急かされ、逡巡の挙句、場所がホテルから徒歩10分という意外な近距離だったので私も行くことにしたものの、妹たちをホテルに残して道を歩きながら、やはり1人でホテルのレストランで気ままに過ごせば良かったのでは…と後悔したりも。一人でピナコラーダでも飲めば良かったのでは!?くよくよしている。せっかくの旅の空の下。

ただ、現地に着いてみたら、ショーというのがプロジェクションマッピングでオットの専門分野だったり。浜辺のベンチのど真ん中の一番良い席に座れて、外気も気持ちが良く、音響も花火も間近で、観客のどよめきも味わえて、徐々に暮れてゆく海辺の夕暮れを堪能できて。
次男たちのチケットは夕飯付きの観覧席で、冷房完備で見やすくて良かったと言っていたし、我々が滑り込みで買った自由席のチケットも悪くなかった。結果的にそれぞれの家族に向いた場所で、それぞれに楽しめて、行って良かったなと思えて。
なんというか、状況にもよるけれども、少なくともその時は例えば一人でぷいと別行動したとしても気が晴れなかっただろうな、と。

そして翌日は妹の子も回復して全員で大きなレジャープールに行き、夜のアクティビティまで少し時間に余裕があったから各家族ごとにホテルで休むなりちょっと出かけるなり思い思いに過ごして、夜また集合しようということになり。うちの子もオットもプール疲れで寝てしまったので、2時間くらいかな、一人で過ごすすきま時間が生じて。シャワーを浴びたり荷物を整理したり、少しゆったりと一息つけて。

昼間、プールですれ違った日本人の親子がいらしたのね。高齢の母親を連れてきていた若いご夫婦。羨ましく思ったの。お母さんも連れてきてあげたかった。きっと短歌の題材にしただろう。
私はかわりに母のイヤリングを持ってきていまして。一緒に旅行を楽しめるように。昨年、母が亡くなった直後の旅行にもつけていったもの。

プールでは無くしそうだったから外していたけれど、後で夜景を見に行くからつけようと鏡に向かっている時に、ふと、もう次男のことはいいかな、と思ったのです。

そもそも、私のここ数年の強いストレスは一体どこから来ているのか。
介護と看取りの真っ只中だった母を置いて海外移住を断行してしまった次男の言動がどうしても受け入れられない、というのが一番大きい、と自分では思っていたんですね。

なぜ母を置いていけるのか。こんな状態の母と、少しでも一緒にいたいと思えないのかと。
そうしたら次男は、病院に言われた余命中央値1.5年を自分は信じていない、と豪語したの。「10年生きるかもしれないじゃん」と。それを聞いて、ああこの人は母がまもなく亡くなるという事実を受け入れることができないんだな、と思った。そこにも憤りを感じている。誰だって信じたくないに決まっている。10年生きてくれたらどんなにいいか。それでも、医師から告げられた宣告をそれぞれに受け止め、しっかりと布の端を掴み、皆で広げてそこに母を乗せ、残された短い時間の中で少しでも母の望む方向へ、苦痛や不快が少ないようにそっと運ぶことが自分たちにできることだろう、と、思っていた矢先に、次男は手を離して重さを担うことを放棄した、としか思えなかった。それで我々残された面子はバランスを崩してたたらを踏んだのだ。それでも手を離すわけにいかなかった。だってそこには母が乗っているのだ。

そもそも突然の海外行きが、会社からの辞令などではなく(次男は自営業者)自分の資産運用のためで。そこに娘の早期教育のためという言い訳をくっつけて、自分の子供と親だったら人生においてどちらを優先するか、当然子供の方だよね、ママより娘を優先するのが当然に決まってる、皆もそうだよね、ママもきっとそう言う、とハキハキと豪語。聞いていてとても辛かった。お願いだからお母さんを蔑ろにする発言を慎んでくれと言いたかった。

申し訳ないが後を頼む、心苦しい、母が心配、と言ってくれればいいようなものを(ツマさんはそう言って涙してくれた)次男はむしろ逆ギレ。東南アジアなんて大阪と変わらない、介護も今まで通りやるって言ってるじゃん、ママだって自分のせいで子供がチャンスを逃すなんて望んでない、子供が自分の犠牲になるなんてママをかえって苦しめる、だから海外行きはママのためでもあると豪語。

何よりその後、母がショックを受けないようくれぐれも伝え方には気をつけてくれと念を押す兄と妹に対し、さっきからなんなんだ、自分たち家族の人生の選択に口出しする権利はないと逆上し、「兄ちゃんも妹も、介護の負担が増えると思っているのならそれだけ自分たち夫婦に依存しすぎだったってことでしょ」と言い放って兄と妹を責めたことが、私にとって一番度し難い発言で、今でも飲み込めていない。

いや、今まで妹が3年ほど近くに住んで毎日のように顔を出して、緊急搬送が増えた時期には仕事で咄嗟に動けない他の人たちの代わりに私が毎回駆けつけて、ケアマネさんとの介護にまつわる担当者会議にも私が出て、そこに無理が出てきたから、妹と姉に今まで頼りきりで申し訳なかった、これからは自分たちでやるから、と自分から言い出して、母を自分のマンションの別室に住まわせて実質半年しか経っていないじゃないか。その半年の間は確かに持ち前の高度な実務能力を発揮してツマさんと二人めきめきと各種手続きを進め母の生活を整えていったが、その後24時間看護の施設も自分の近くに決めて入居させたわずか数日後に海外移住を思いついたという突拍子のなさ。急展開すぎるし、身勝手が過ぎる。

にも関わらず、他の皆は誰もそんなふうに責めたりもせず、「まあ次男だからしょうがないな」と受け入れて、次男の指示通りにやれやれと呆れつつも切り替えて動き出してしまったので、私一人が取り残されてしまい。私にとっては20年の結婚生活まで揺るがすほどの致命的な余震を伴って、2年が経過してしまった、んですけれども。

次男は一昨年、ママも海外行きを許してくれた!応援してくれた!と意気揚々だったけれど、その時母はすでに声が出ない状態で。でも頭ははっきりしていたので、メールでご友人方に詳細な闘病日記を書いて送ったりもしていて。手指も不自由だったからキーボード操作がうまくいかず、私が代筆することも多かった。ほぼ聞き取れない言葉をなんとか聞き取りつつ、オットが設定した画面共有のおかげで母のPC画面を見ながら操作できたから、どこを変換したいのか、どこを直したいのか何となく分かったので。それから、誤操作が増えていて、明らかに大事なメールをドラッグしてゴミ箱に入れてしまったりも多発していたので、時々母のメールボックスにアクセスしてチェックするのも私の仕事だった。

そんなある日、母のメールボックスに、母が一人で書いたであろう長文メールを見つけて。そこには親しい友人向けの近況報告として、「驚かせてしまうかもしれませんが、次男家族が海外に移住することになったそうです」と書かれていて。
「私を置いていくのか、と叫びたかったのをぐっと堪えました」とも。

母はただ単純に次男の海外行きを受諾したわけではない。自分の処遇への不安や、次男と家族に対する心配だってもちろんあったのだ。声が出せずにうまく伝えられなかっただけで、何も考えていないはずがない。それをぐっと飲み込んで、「ですが、私の生来楽天的な性格は次男が色濃く受け継いでいるので、きっと大丈夫だろうと思うようになりました」とメールでご友人方には書いていた。それもきっと母の本心であったろう。そもそもが家族に話すつもりはない、親しい友人向けの吐露なのだし。

ただ、「長男も長女も海外行きに賛成しているそうです」とも書かれていて、オットも妹も賛成なんかしていない!!とこちらが叫びたかった。私は反対したかった、どうしてお母さんを置いて行けるのか理解できない、オットさんも妹ちゃんもせめてあと数年先にできないのかと言っていました、それを次男がつっぱねたんです、そして結局は言い出したらもう聞かないから仕方ないとオットも妹も折れただけなんです、でも私は到底納得なんてできていません。

どうして少しでもお母さんのそばにいたいと思えないの。
残り時間は限られているのに。

母は、自分の余命が短いかもしれない、ということをあまりはっきりと認識しないままだった。ふたつめの持病が発覚した時には高熱で朦朧としていて、医師の説明もあまり頭に入らなかったらしい。そのまま会話も困難で、面会もままならない状態に突入してしまったから、余命についても次男についても、込み入った話ができないままだった。

だから私も、次男の海外行きに関する母の動揺や葛藤をメールで見知っても、それ以上の詳しい話を持ちかけられなかった。いや、一番最初に「聞きましたか?私もびっくりしました」くらいは辛うじて言ったがそこまでで止めて、オットさんも妹ちゃんも、私もこれまでと変わらずサポートしますので安心してくださいね、と明るい声で伝えるしかなかった(※ここに関して思い出したことを、文末に追記しました)。それ以上下手に話しても、余計に母を混乱させてしまいかねない。次男に対する憤りの何もかもをぶちまけたいのは私の身勝手な衝動にすぎない、母のためには黙って抑えなければならないと。

それがきっと、私の一番の苦しみだったんだな、と。
次男への怒りだけでなく、それを母に知られてはならない、ということ。
次男転じてオットや妹たちにまでわだかまりを抱くようになってしまった、そんなことも母に知られてはならない。きっと母を悲しませる。

そこにこそ私の苦悩があったのだ、と。母のためにこんな悪感情は早く直さないと、仲良くしないと、と無理をしてきた。それがしんどかったんだな、と、その日ホテルの一室で、ふと思い至ったのです。

でも、もしも母が知っても、きっと受け入れてくれたんじゃないかな、とも思えて。
生前そうだったように。私のこの葛藤も含めて。
怒ってくれてありがとうと。「あひるさんはいつも私の気持ちを一番に考えてくれる」と。言ってくれるんじゃないだろうか、と。

だから、もういいかな、と。
明るい南国の夕方の、海辺のホテルの一室で。
無理に許そうと思わなくてもいいんじゃないか、と、思えたんですね。

つまり許してない?笑
ってことにもなるんだけど、それでいいや!って思えたらすごく気が楽になったのです。いや実際許せんだろこれ。無理でしょ。ちな友人C美はめちゃくそ怒ってくれてますよ?はああああ!?って。テメェの血は何色だぁぁぁぁ〜〜〜ッッ!!!つって。ありがとうマイフレンド。君はもう一人の俺。

あと、次男ツマさんの持病がむしろ移住したことにより回復傾向にある、という話も大きかった。南国で、季節の変遷や台風などの急激な気圧変化がないことが体質にあっていたそうで、日本にいた頃より楽になっていると。
思慮深く理知的で、他人の気持ちや状況に敏感なあまり自分が我慢してしまいがちに見えるツマさんが次男の身勝手に翻弄されて…大丈夫なんか…?というのも次男への憤りのひとつだったので、それなら何よりだなあと。

たぶん今後も、次男どうかと思うが!!と腹が立つ時は来ると思うのです。長男や妹たちのようには達観できない。でももうそれでいいやと。次男は次男なりに一生懸命なんだろう。どうかと思う時も多々あるけど。どうも私は今ひとつやはり人との距離感を適切に測るのが苦手で、受け入れるなら全部OKで、ダメなら全てNGにしないといけないと思い込んでいたのかもしれない。そんなことない。オットや妹が受け入れていても私は無理、でいいし、どうかと思う部分があっても次男の全てを拒絶しなければいけないわけでもない。頭が痛いと聞けば気の毒に思うし、それでも先に寝込んだツマさんの代わりに娘ちゃんとプール巡りをしている姿は好ましくも思う。

それでいいんだろうな、と。
本当に、ひとえにお母さんの人徳の賜物です。

そんなわけで!
2年続いたストレスフル生活も、時々匂わせてしまった愚痴も、ひとまず落ち着いた…のかもしれません。読んでくださって、心を寄せてくださってありがとうございます。また来ると思うけどね?一度開いた蓋はなかなか塞がらないので。そこに蓋があったことにはもう気づいてしまったから。不穏なこと言うな。でもそういうものですよね。
それも含めて、やっていくしかないんだろうなと。

そんな、暗いような清々しいような、南国旅行記でした。

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(ちょっと追記)

次男の海外行きについて、母には無理して明るく伝えた、と書いたけどちょっと違った。
当時書いた手記によると、「私は自分の気持ちを母にちゃんと隠さず伝えた」とありました。

急な話で、私もびっくりしたし、ショックです、でも引き継ぎはちゃんとやるのでお母さんは安心していてください、と。
この時すでに母は声が出ず、複雑な会話や雑談はできない。一方的に話すしかなかった。

無理矢理前向きな説明はしたくなかったし、他の面々が母を安心させるためとしてそれをするのなら、私は「ショックだし、行ってほしくない」という感情面を抑えず伝えようと考えた。

って当時の自分書いてた。あらちゃんとしてるやん当時の自分。がんばってるやん。と思いました。(追記以上)

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さらに続きも書きました。

2023-08-31 南国旅行記のフォロー(になってないかもだけど)、オットと介護について [まじめに][介護、看取り]

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過去の記事。
お母さんについて。
2022-05-15 オット母が入院したとき私に言ってくれたこと。子供は本当に「お母さん」が大好きだということ。[まじめに][機能不全家庭]

2023-05-09 分娩で命を落としかけた私に、オット母の心から尊敬する振る舞い [まじめに][分娩記録5]

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次男について。
2021-04-17 『監察医朝顔』最終回によせて、オット妹と弟の結婚式のスピーチの話[まじめに][亡き父の話]

歯医者の麻酔
2013-05-15 オット弟くんの堂々としたヘタレっぷり

子供の頃の話じゃないし
2013-05-15 オット兄弟とエビとかたつむり

ボンカレー
2010-01-14 brother’s wedding

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ここ数年のモヤモヤ
2022-01-15 あけまして2022年のご挨拶と、年末年始備忘録(介護の話)

2022-09-29 47歳の秋だから。我慢しないで言うキャンペーン実施中 [オットに][まじめに]

2022-10-04 こんな夢を見た [オット][ネタです][でも実話です]

2022-10-07 オット母のこと、『監察医朝顔』2022年スペシャルに寄せて [まじめに]

2022-10-12 「家」というものと女たちについて、朝ドラ『カムカムエヴリバディ』に寄せて [まじめに]

2022-12-31 2022年もお世話になりました [ややまじめに]

2023-01-20 2022年末〜2023年新年のおせちと仕込み、母のいない年末年始

2023-03-08 [まじめに] 国際女性デーと20回目の結婚記念日(暗いです)(暗いのかよ)

2023-06-09 健康メンテナンスあれこれ、整体とストレスとヨガとか [介護][まじめに]

2023-06-10 更年期障害と漢方医と長年眠れていなかった私 [まじめに][機能不全家庭]


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