[80年目の八月十五日]『火垂るの墓』を11歳のうちの子と見た [まじめに]


今年は戦後80年ということで、NHKのいろんな特集やドラマを見ました。主に一人で。でもこれはうちの子と観ようと思って、太平洋戦争中の話で、悲しい話だけど見る?と事前情報を伝えつつ、一緒に観ました。

私もたぶん35年ぶりとかじゃなかろうか。子供の頃…高校生か中学生くらいだったかなあ、テレビで父と一緒に見た覚えがある。細部を忘れていたので、久々に見始めてのっけから、清太だけでなく浮浪児たちが死ぬのを待つばかりで放置され、通行人も気にも止めていない様子や(虎に翼でもそういう描写ありましたね)、お母さんの無惨な死に様などを見て、こんなに残酷な描写が多かったのかと驚いてしまった。

大丈夫かな…と心配になったけれど、うちの子、最後まで淡々と見ていました。ところどころ、えっひどくない?とか言いつつ。特に焼夷弾。爆弾じゃないんだね、と。ほんとね。爆発しないならそこまで残酷じゃないのかな…とうちの子が言ったそばから、節子をおんぶする清太の真横で家々から爆発のような火の手が上がり、ひい、となりました。

そう!あのね、『火垂るの墓』といえば「働かない清太が悪い」説あるじゃないですか。でも、冒頭で清太、てきぱきと避難する準備してるんですよね。まず梅干しやかつおぶしなどの保存食を庭に埋め(「何やってるの?」とうちの子。家が焼けたらだめになっちゃうけど、こうして埋めておけば焼けずに済むから後で取りに戻るつもりなんだよ)、心臓が悪いお母さんに向かって「薬持った?」とまで。母親のことまで気遣い、幼い妹をおぶって、荷造りして、お父さんの写真も持って。

清太…立派やないの…14歳じゃろ?十分立派やって…。

そして、無惨な姿の母のことは妹に隠しておくだけじゃなく、すぐに母親亡くなるんですね!?遺体を投げ込んでまとめて焼却する場面にまで立ち会って…あれじゃお骨も誰のだか…。遠縁のおばさんちに着いてからも、母のお骨は庭に隠し…すでに亡くなっていることを知られたら立場が悪くなると悟っていたんだろうな…。あと件のおばさんものっけから「海軍さんとこは戦時中だっていうのに贅沢できていいわねえ」みたいな嫌味言ってくるし。いや、おばさんも当時は自分の家族を守るだけで精一杯だった説もわかるが、元から微妙にイヤな人だったのも確かじゃないかこれ。

で、あの、もう、節子の声が!可愛いのです!ほんとに幼い子の笑い方すんの。キャキャキャ!って。あと清太がほんといいお兄ちゃんで…ずっと遊んであげてんの…
時々、赤い照明を浴びているかのような二人の魂、のような描写があるじゃないですか。これも今回見返すまですっかり忘れていた。おばさんの家で泣く節子の声に思わず耳を塞いだり、魂になってもまだ苦しんでいる清太の様子が。もう。
ていうかそもそも冒頭から、魂となった清太が、形見のドロップの缶を拾って(ボロボロに錆びていた缶が持ち上げる間にぴかぴかに…)、節子の手を取り、『火垂るの墓』のタイトル…ここから泣くしかなかった。

節子がどんどん弱っていく様が、ジブリの、高畑勲氏の渾身の作画で克明に描かれていて、つらかった。つらかったです。

昔見た時も印象に残って覚えていたのは、最後ね、節子が死んでしまってから、二人が暮らしていた防空壕跡の近くにお金持ちのお嬢さんたちが笑いさざめきながら帰ってくるじゃないですか。あの残酷な格差と、そこにかぶる節子の元気な姿の幻でした。当時一緒に見ていた父が、「最後のあの、節子ちゃんのシーンは、ことさらに可愛い仕草を見せつけてわざと泣かせようとしてるようで、あざといなあ」と皮肉っぽく言ったんですよね。団塊の世代、常に世の中を斜めに見て辛口批判が好きな人でした。いや、あれ見てそんな感想しか持てなかったのか父よ。しかもそれを娘にドヤ顔で言うとか。残念だな。

今回、11歳の息子の隣で、親の立場になって同じあのシーンを見て私が思ったのは、もうあんなん、ただ生きて、幼くて、楽しんで、はしゃいで、笑って、暮らしていただけじゃないかと。

それから清太、火葬してるんですよね一人で。節子を。炭を売ってくれたおじさんも、よく晴れてカラッとしてるからよく燃えるやろ、みたいなことをカラッと明るく言っていて、こういったことが日常茶飯事になっていることが伺える。そして丸一日かけて節子を荼毘に伏す清太の様子が淡々と描写され。そう、その少し前の、節子の亡骸を抱いて虚ろな表情をしている清太の止め絵もつらかったです。もう少し前の、眠っている節子を思わず抱きしめてしまう場面も。ちょっとね、今、ほら、私一人で子供を必死に育てているので。重ねてしまって。先の見えない不安とか、それでもやっていくしかない、恐怖とか。後ずさりしてももう道がなくなっているのが、かかとの感触でわかる感じと言いましょうか。

原作では、節子が亡くなったのは8月22日らしいです。ちょうど今日。清太が三宮駅で亡くなったのは昭和20年9月21日。1ヶ月…もう、生きていく気力がなくなってしまったんだろうな。誰か、誰かなんとかしてやれなかったのか…と思わずにいられませんでした。うちの子にもそう言ってしまった。誰かなんとかしてやれなかったのか…と。節子ちゃんは4歳、清太くんは14歳らしいから、タローはもう節子ちゃんというよりどちらかというと清太くんに近い年齢だね、とも。私を見上げるつぶらな瞳は、それでも4歳の幼さを色濃く残しているように感じられました。

私、今年で50歳になるのです。父が昭和20年(1945年)5月生まれなので、生きていれば80歳。子供の頃から、戦後〇〇年、とニュースで言われる時、常に父の年齢と同じでわかりやすかった。それから父が30歳の時に生まれた私自身の年齢とも、キリがよくて数えやすかった。80年の節目なのだけど、今年はちょっと、自分の人生が怒涛の過渡期すぎて、NHKの戦後記念特集もたくさん見たんだけれど、あまりきちんとした感想を残しておけそうになくて。でもせっかく8月15日に放送されたのだし、『火垂るの墓』については書いておこう、と思いました。

映画の最後、赤い魂の清太の膝で節子が眠ってしまい、清太がつとこちらを見るじゃないですか。目が合ってしまい、どきりとする。つと逸らした先の眼下には、映画公開当時1988年の神戸のきらびやかなビル群。当時すでに戦後まもなく40年という、いや、”現代”ということだろうから、戦後80年の今ももしかしたら、幼い二人はまだ成仏できずにこの世を彷徨っているのだと思うと。なんと重苦しいラストシーンだろうか。

誰か、じゃないな。誰かなんとかしてやれなかったのか、ではなく、なんとかしないといけないのだな。

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以下、印象的だったツイートメモ。

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