[まじめに] 国際女性デーと20回目の結婚記念日(暗いです)(暗いのかよ)

ヴィンランド・サガ(10) (アフタヌーンKC) [ 幸村誠 ]

そうなんですって。今日3月8日は国際女性デーだと。友人が教えてくれたの。調べてみたら制定されたのは1975年だった。私が生まれた年だ。そして、今日ではないけれどつい先日がふと気づいたら結婚記念日で。子供に説明したときにね、あ、そういえば今日父ちゃん母ちゃんの結婚記念日だよ、えーと2003年に…

って、おお。20年目やんけ。

と気づいてびっくり。

何がびっくりって、20年も経ってるのにちっとも落ち着いてないし安心できないし分かり合ってもいないっていう。もうちょっといい話聞かせて?20年!?おめでとうござ…ってハイタッチのために挙げた手の降ろしどころ頂戴?

ねえほんと。すいませんほんと。あひるちゃん最近ほんとのことだからってリアクションに困る内容多すぎ問題。

んん、でもほんとに。困ったなあ。20年かあ。10年の時の結婚記念日記事覚えてらっしゃいます?変わらずに好きでいさせてくれてありがとうとか書いてたの37歳の私。若い!!若い!!若い!!(3回も)

10年後、57歳になった私にとってはこの47歳の、20年も経つのにちっとも落ち着いてないと戸惑っている自分が若いなーと感じるんだろうか。年月に何かを期待している様がね、若いな、と。自分でなんとかしないと。不満があるなら伝えないと。自分の領土は自分で守らないと。

いや…伝えようという努力はしてきたんじゃないか?かなり。
本当にこれ以上、まだ私の方だけが変わらないといけないのか?

この20年、たぶん私はその場にしがみついているので必死で。何かを訴えるとか、変えようとするとか、伝えるとか、そういうことにエネルギーを費やす余裕がなかったんですよね。なんとなくそれでも生活は回ってしまっていたし。

でも、どこかに常に違和感があって。不安が、不満が。どこかに常にあって、時々噴出して、訴えてみてもうまくいかなくて、やり込められて引っ込めて、というのを繰り返してここまできてしまって。20年。

最近思っているのが、私は自分で思っていたよりもずっと、傷病者だったのではないかと。虐待サバイバー。だから日常生活を送るだけでいっぱいいっぱいで、そんなことまで望んじゃ贅沢だとか、殴られないだけ怒鳴られないだけ幸せだとか、危害を加えられないだけ、相手に悪意がないだけ良いだとか、実家より遥かにましだとか、そう思って大小さまざまな我慢を積み重ねて来てしまって。

ちょっともうそれが限界にきている、ということにようやく気づき始めている、のではないかと。
ここ数年の人生の転機で、揺さぶられまくって。

今はようやく、落ち着いて自分に自分を使うことができる貴重なタイミングかな、と思うのです。自分に時間や労力をね、向けることができるようになってきた。しかしそれも僅かな隙間時間で。

これがまたね、次は子供の中学受験が控えてまして数年後に。色々考えて我が家ではやることにしようかと、少し前から準備を始めているのですがまあ大変。これがまあ大変。具体的にはうちのお子さんに塾に通っていただいているのですがまあ嫌がる嫌がる。思うところはとっても色々いろいろあるんです。こんなまだ小学校も2年3年くらいのうちから塾って、って。思うんですけども、それでもやはり、色々考えた末に、やった方が良いだろうなと保護者として思ってのことなんだけど嫌がる嫌がる。

うちの子王様。自分という国の王。なんぴとたりとも我が自由を侵害するもの許すまじ。作画完全に幸村誠。その気高さ嫌いじゃない。むしろすごく良いと思う。私にはないその地盤。

だからですね。その王に納得していただくためにも。
私も自分をしっかりと立て直さねばなるまい、と。
ふらふらおろおろしている場合じゃないなもう、と。

あと数年のうちに少しでもましになるように、ちょっと自分の地盤をね…自分で耕し直さないとなあ、と。作画幸村誠といえばね、最近ヴィンランドサガも観てるし読み返してるしその影響でいえば、奴隷だった自分を買い戻すためにね、荒地を耕している最中、ですね。

ほんっとうに。ほんっとうにこの、生まれ育った家庭で得られなかったもの、破壊されたものの大きさ傷の深さゆえの立て直しの厳しさときたら。トルフィンに共感できすぎてヤバい。スタートラインにたどり着くまでがしんどすぎる。

でも、やるしかない。

その一環としての、オットに言いたいことを言うキャンペーンだったり。悪夢にうなされるほど不慣れなんですけど。だからちっとも落ち着かないんですけど。

落ち着かないのはオットも一緒かもしれないんだけど。だから怖いんですけどね、いつ怒られるかと。いい加減にしてくれない?最近なんなの、って責められるんじゃないかと。でもその感覚がそもそもおかしいんじゃないかな、と最近ようやく思えるようになってきて。自分がしんどいと感じていることをしんどいと伝えて、それでイライラされたり、イライラされるかもしれないからいつなら大丈夫かなと大縄跳びみたいに相手の邪魔にならないタイミングを見計らって緊張したり、そんなのもちろん疲れるからもういいやこの程度のこと、と引っ込めるのって、あまりに不均衡なんじゃないかと。

自分は、「一緒にいる誰かの居心地を良くしなきゃ」と常に周囲を伺ってしまう性質なんだな、と最近やっとはっきり自覚して。
転じて、「誰かの不快は自分の落ち度」とも思い込んでいた。
それは主婦としてとても都合良く機能してしまっていた。この20年。ケア労働という透明な重責に、あまりにもフィットしていて、どうかするとこれにやり甲斐を感じることができない自分が間違っているとか。他に何もできないんだからとか。思い込んでいて。

でも、それでしんどくなってきてしまったのなら、無理に続けなくていいんじゃないか。
これまでがんばって、家族の快適のために無言で立ち働いてきたのだから。
私も自分のために自分を使っていいんじゃないか。家族の世話にかけていた分を、自分に取り戻す。

そこにそんなに、こんなに怯えなくても、言い訳しなくても、理論武装しなくても、ほんとはいいんじゃないのかな。

こんな感じの最近です。
今後の20年のために、家族間、夫婦間のコミュニケーション方法を模索中。です。


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