家庭というものがうまく機能する時、後編 [まじめに][亡きオット父の話2]

博士の愛した数式
寺尾聰, 深津絵里
2013-08-31



ひとつ前の続き、12年前(2009年)に起きた出来事です。

2021-10-06 家庭というものがうまく機能する時、前編 [まじめに][亡きオット父の話]

家族の死についての内容で、一部には病院での詳細な記述もあります。苦手な方は無理せず、閲覧を避けていただけたらと思います。

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父が亡くなった最初の一週間は、異様に長かった。

オットは手続きに忙殺され実家に泊まり込みだったので、私は一人で過ごす時間も多かった。食料や日用品の買い出しをしては実家に運んでご飯を作ったり洗濯をしたり、そんなふうに忙しくしながらも、町を歩いていて父より年上らしき人を見かけるだけで涙が吹き出た。あんなおじいちゃんも元気に歩いているのに、なんでお父さんは死んじゃったんだろう。まったく不条理な考え方なのはわかっていても、そんなふうにばかり思えて涙が止まらなかった。燦々と日がさす秋晴れの商店街のアーケードの人波の中、家族分の大荷物を両肩に抱えて目深に被った帽子の下で泣きじゃくりながら歩いた。

それでも実家に着くと、オットも弟も妹も、泣き腫らした目をしながらも全員テキパキと動いていた。人一人亡くなると、あんなにも膨大な事務作業が必要になるとは知らなかった。忌引きは全然休みじゃない。弟が当時仕事で、会社をたたむ時の事務手続きのようなことを担当していて、その手の書類仕事に強かった。人が亡くなった時も大体似たようなものだし、少し調べて何をすべきかは概ねわかったから、と、各自に効率良く仕事を割り振ってくれて、みんなあちこちに駆け回った。

そうやって必要なことを調べていくうちに、父のきちんとした性格の証左も続々と明るみに出てきた。
各種パスワード一覧がまとまっている。貯金や資産などもどこにどれだけ預けてあるか目録がPC上にまとまっている。細かく家計簿もつけてある。遺書もあって(母によると数年前の脳梗塞を機に書いたとのこと)、法的に有効な封をしたものの脇に、家族が事前に確認できるようにと中身のコピーまで添えられている。至れり尽くせりである。

父を知る誰もが、そんな用意周到で沈着冷静な人の死因がうっかり転倒したことだなんて、にわかには信じられなかったようだった。

数年前の脳梗塞で半身が若干不自由だったことも、足場の悪い場所で体勢を立て直せなかった理由のひとつかもしれない。少なくとも、転倒強打による脳内の出血が止まらず致命傷に至ってしまったのは、脳梗塞の再発予防のために血液が固まりにくくする薬を飲んでいたからだ。「だから大きな怪我をすると死んじゃうんだよ」と父は笑って言っていた。

母によると、発見されて母がそばに寄るとまだ意識があり、話も少しできたそうだが、それがきっと奇跡的なことだったのだろう。外傷や目に見える出血は少なかったので、救急車で運ばれてレントゲンを撮り、医師から話を聞くまで、母もまさかそのまま死んでしまうような怪我だとは思っていなかったそうだ。父も苦しんだりはしていなかったという。手術室に向かう医師に、半信半疑で「東京の子供たちも呼んだ方がいいんでしょうか」と聞いたら「そうしてください」と言われ、事の重大さに気づいた、と言っていた。
連絡を受けた私たちもそんなことになるとは思ってもいなかったが(弟と妹は初めからかなりの危機感を持って受けとめたようだったが)、今思えば、わざわざ旅先に子供たちを呼ぶくらいだから相当なことだったのだ。

弟は出先からすでに現地に向かっていて、オットと私は東京駅で妹と合流して一緒に特急に乗った。オットも私もこの時はまだあまり危機感がなく、「もしかしたら泊まりになるかもしれないから、ちょっとおやつでも買っておこうか」などと言ってキオスクで甘いものを買ったりした。妹は目を真っ赤にしていて、母に頼まれたという父のパジャマや着替えを抱えていた。家から駅までの自転車でこけた、とひざをさすっていた。あら大丈夫!?動揺しちゃってかわいいなあ、くらいにこの時は思っていた。

しかし特急の車内で母から「手術は終わったが、もう手の施しようがない(と医師が言っている)」という電話を受けて妹が泣き崩れた時、オットも私もようやく事の重大さが飲み込めた。

そこからは3人ともほぼ無言だった。私はずっとぼんやりと、車窓を急速に通り過ぎていく夜の灯りを眺めていた。

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救急病院の夜間通用口をくぐるとすぐそこにベテランらしき看護師さんが待機しており、名前を告げると足早に奥へと案内してくれた。ICUに駆け込んだ時には、父は包帯だらけの血まみれで意識もなく、一目で助からないとわかる状態だった。血栓予防の薬のせいか点滴のせいか血の色は水で薄めたようで、それが枕元からベッド下にまで広く滴ってしまっていた。水色の医療用の吸水シートのようなものが頭の下あたりの床の上に幾重にも重ねられていた。ようやく状況を100%理解した私の目からはダムの決壊のように涙が溢れ出て、何も考えられなくなってしまった。先に到着していた弟も涙をこらえているような真っ赤な顔でベッドの父を凝視していた。妹もさらに激しくぼろぼろと泣き喘ぎながら、横に立つ長兄の肩に体重を預けていた。

誰より長い間ベッド脇に佇んでいたであろう母は、動揺することもなく、いつもと変わらない(少なくともそう見える)冷静さで、事故の前後の様子を話してくれた。何度か涙目で微笑みながら、「スーパーマンみたいに、時間を戻せたらいいのにね」と言った。恋人の死に慟哭し、地球の周りを自転と逆方向に7回半回って時間を力づくで逆行させてしまうシーンのことだ。私も心の底からそう思った。声もなく、大きく頷くことしかできなかった。今すぐ成層圏まで飛んでいって、地球を逆回しにしたい。もしもそれで本当に時が戻るなら。

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驚いたのは、その少し後のオットの振る舞いだった。
そこから心臓が停止するまで2時間ほどの猶予があったので、全員で少し落ち着きを取り戻し、父の枕元でポツポツと話をしながら過ごした。母が、みんなお父さんに声をかけてあげて、意識があるかはわからないけれど、お医者さんによると最後まで耳は聞こえているらしいから、と言った。

その時オットが、父の枕元で、

「あとのことは全部大丈夫だから、安心して逝っていいよ」

と言ったのだ。
力ない父の手を握りながら。
ゆっくりと、はっきりと、優しく。

こんな時に、こんな状況下で、こんなにも長男として相応しいことを、とっさに、みんなに聞こえるようにはっきりと形にできるとは。
なんてすごいことだろう、と思った。

数日か数週間か経った頃にそう伝えたら、「うん、ここは(ああいうふうに、みんなに伝えるためにも)言っておくべき場面だな、と思ったから」と言っていたが、それを実行できるところがすごい。心からそう思った。

その後、全員で実家に戻ってせわしなく事務処理を片付けているさなか、母が「これからは倹約しないといけないから、もう旅行だ趣味だ言って浪費していられないわね」と悄然としていた時には、弟とオットが代わる代わる、「いや、パパの家計簿や貯蓄の明細見たら、心配しなくてもママ一人くらい問題なく暮らせるよ」(年の離れた妹がいるからか、弟はいまだに両親をパパママと呼ぶ)オットも「うん、それに親父の(脳梗塞後の後遺症の)世話でできなかった分も、落ち着いたら今まで以上に出かけたりすればいいよ」

父も含め家族全員で何度も囲んだ大きなダイニングテーブルを挟んで、息子二人が具体的かつ温かく母を励ましていた。

その日は、母の誕生日だった。父が亡くなった翌日だ。
そうだ、と妹が片付けの手を休め、用意していた誕生日プレゼントを持ってきて母に渡した。濃いグレーの薄手のカシミヤのセーターだった。品が良くシンプルで、母によく似合っていた。どうかしら、と母が子供たちを見る。うん、いいんじゃない。似合うよ。パパもそう言うかしら。うん。誕生日おめでとう。おめでとう。妹のおめでとうは少し涙声だった。ありがとう、と母は笑った。目尻に涙が光っていた。

そんな様子を、私はテーブルの脇に立ち、言葉もなく眺めていた。

これが家族というものなのか。
一番大事なものが欠けても、こんなにもしっかりと機能するものなのか。
こういう時に頼りになる子供がいるって、なんて素晴らしいことだろう。
それもこれも、父と母がそのように子供たちに接してきた結果なのだ。
子供を持つって、こういうことだったのだ。
目指すべき理想形がここにあった。

私は知っていたはずだった。
結婚して7年、高校の頃に出会って20年近く、オットがこんなにも温かく、頼もしい人だったことを。
自分が親になる自信がないのを、あなたは仕事で忙しくてどうせ育児に協力してくれない、だから一人で育てることになる、そんなの嫌だ、無理だ、とオットのせいにして逃げていた。だけど私はもうとっくに知っていたはずだった。オットの誠実さ、弟妹たちの健やかさ、彼らをこんなふうに育て上げてくれた母や父の人となりを、私は知っていたはずだ。

オットをお父さんのような父親にしてあげたい。
オットと二人で、お父さんとお母さんのように子供を育ててあげたい。
親になりたい。子供がほしい。
私にはきっとそれができる。オットと二人なら。この家族のもとでなら。
もう怖がらなくていいんだ。

生まれて初めて心の底から、そう思えた。ようやく。
あの日、実家の居間のテーブルの脇で。

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出来ることなら、お父さんにも孫を抱いてほしかった。うちの子を可愛がる「おじいちゃん」の姿を見たかった。間に合えば良かった。間に合わせれば。時間はたくさんあったのに。
だけど、それはもう考えても仕方のないことだ。34歳でそのように劇的に人生観が変わり、子供が欲しいと思えるようになったけれど、そこからなかなか授からず、2度の流産を経て結果的に体外受精をして、実際に産むまでには4年半かかった。出産したのは38歳だ。
父のことがなければ、自分の身体が授かりにくい体質だと気づくまでにもう数年かかっていただろう。そこから体外受精に着手しても、成功率は母体の年齢が上がるごとに著しく下がってしまうので、間に合わなかったかもしれない。
ギリギリのタイミングで、父がきっかけを作ってくれたのだ。

父の子供たちは、我々夫婦の息子が2014年の3月に生まれたのを皮切りに、弟夫婦に女の子、妹夫婦に男の子が続々と生まれ、全員同じ年に親になった。みんなでしょっちゅう集まっては賑やかに子育てをしている。母も趣味の短歌や友人との旅行に加え、3人の孫たちに平等に会いに行くことで多忙な日々を送ってくれている。

お父さん、私に子供をありがとう。
私たち全員に、家族をありがとう。
いなくなってなお、こんなふうに明るく温かくみんなを繋いでくれてありがとう。
孫3人はみんなすくすく大きくなっています。
オットも弟くんもおおむね頼りないながらもここぞという時には立派な父親ぶりで、妹ちゃんは末っ子らしい天真爛漫さに加えて落ち着きもある頼もしい母親っぷりです。
お母さんも元気です。
安心してください。


(2016年10月。2009年に書いてから少しずつ手を入れ保管してきた文章を、2021年さらに改訂)

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はい、そんなわけで数年後の世界線からありがとうございましたここまで読んでくださって!

前編冒頭に書いたように、ある程度のまとまった時が経って一番変わった部分は、「お母さんも元気です」の部分でしょうか。母の日の記事にもちらっと書いたのですが、ここ数年で驚くほど体調が変化してしまいました。お父さんが生きていたらどうだったろう、と時々考えてしまいます。そもそも父が亡くなったことがきっかけで心身の状態が悪くなっていったようにも思うので、お父さんがいたら今頃もっとずっと元気で、お父さんと二人揃っておじいちゃんおばあちゃんとして孫たちと交流してくれていたのかもしれない。

あるいは、妹から聞くところによると実はお父さんもけっこう「ザ・昭和の男」然としたところがあったそうで、お母さんに冷たかった、なんて話もこの12年の間には出てきており、母の体調不良が父生存世界線でも起きていたとしたら、もともと事故の後押しとなってしまった自身の脳梗塞の後遺症と配偶者の不調両方を抱えて、父も思うようにいかない日常生活のイライラを妻にぶつけちゃったりしていたのかもしれない。それは誰にもわからない。

仮にそうなっていたとしても、それも家族の揉め事あるあるで、オット一家ならそれなりに適材適所でうまく回せていたのかもしれない。

12年前当時、あの居間の真ん中で、大きなダイニングテーブルの脇に立って呆然と見惚れた家族のありかたから比べると、2021年の今、私の立っている場所からは悲しいことにあの瞬間とはややずれた風景が見えています。ホログラムのように、ちょっと角度を変えると違うものが見える。何も問題のない完璧な家庭なんてない。
だけどそれも、そういうものなんだろう。
生きて、時が流れて、変化していくんだから。

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以上です。
ここからは、いよいよようやく満を辞して!子供が欲しいと思えるようになったわりになかなか授からずあれこれ葛藤したり、生殖医療(不妊治療)のお世話になったりする話を、また時間を見つけてアップする予定です。
しんどい話がちらほら出てきて恐縮なのですが、無理のない範囲でお付き合いいただけたら嬉しいです。

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大きな古時計
平井堅
Sony Music Labels Inc.
2013-10-23



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以下、関連あひる

2006-01-06 ロマンティックなマリアージュ ~『博士の愛した数式』、オットくんの父さんとお母さん

↓実はこの記事の「催し物」とは父の葬儀だったのです。台風で数日延びたのですが、とにかく目まぐるしい家族の臨終の前後にぽっかりと休符ができて助かったな。
2009-10-08 ぽっかりおせんたく

これも実は、遠方のおばあちゃん葬儀の様子を伝えるための訪問でした。
2010-01-26 オット家の女たち ~ Granma’s Lemon Cookie

弟と妹の話。
2021-04-17 『監察医朝顔』最終回によせて、オット妹と弟の結婚式のスピーチの話[まじめに][亡き父の話]

弟と夜のバス停で話したこと。
2013-01-21 アニメ宇宙兄弟が盛り上がっている、日々人の月面事故の話

お父さんの話。
2018-03-08 [真面目に] 大杉漣さん亡き後の『バイプレイヤーズ』最終回を見て、亡き父を想う

オットくんを真面目に真正面から称えたのは7年も前か。
2013-03-03 10th wedding anniversary

今回株爆上がりなオットくんも息子からはこんな扱いっていう。
2019-06-27 父の日とうちの子と蒲田くんとオットくんの知られざる危機

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私の元家族の話。
2021-04-30 実父とかドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』とか、引け目とか [家族の重い話][真面目に]

2021-06-24 「母の愛」という箱(元家族の暗い話と救いの話4)[まじめに][機能不全家族]

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そんな紆余曲折を経て。
2014-12-25 [お知らせ] こどもがうまれました

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子供を持つ持たない、などのことについて。
2017-12-01 [真面目に] 『コウノドリ』子宮摘出の回と、P&Gの「お母さんありがとう」CMに思う

ハートをつける ハート 136

2 Replies to “家庭というものがうまく機能する時、後編 [まじめに][亡きオット父の話2]”

  1. 以前コメントさせていただいたシベリアです。
    また仕事場で読んで涙目…!(仕事しろ)
    他のご家族を見て価値観が変わる感じ、とても良くわかります。私も友人のご両親に会うと「だからこんな素敵なお嬢さんご子息が育つのか!」という気持ちに何度もなりました。
    また、我が父も脳梗塞の結果半身が麻痺になったので転倒のお話は想像でき、注意せねばと肝に銘じたところです。
    次の更新もまた楽しみにしておりますね!

  2. シベリアさん
    わあああこちらにもありがとうございます〜。重い記事にそんなふうにあたたかい共感をいただけると本当に励まされます。
    お父様も脳梗塞で半身にご不自由を抱えてらっしゃるとは、家族としてもなかなかハラハラしてしまいますよね。どうぞお大事になさってください。

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