あきらかに本編で使う予定ではなかったんだろうな、というオフショットや、あきらかにどなたかスタッフさんが面白すぎたから撮ったんであろうオフなスマホ動画が多用されていて、しみじみと見入ってしまいました。特に海辺でブルースハープを吹き鳴らす漣さんの長回しが。
さみしいし、泣いてしまったのですが、でも訃報直後の3話を見ていた時も思ったけれど、なんというか、悲しいだけじゃなく、普通に面白いお芝居を見せてくれている生き生きとした姿に自然と引き込まれて、こちらも途中から悲しさを忘れて普通に見入ってしまって。
『バイプレイヤーズ』も北野映画も大好きな友人ともメールで話したのですが、昨日まで普通に元気に言葉を交わせていた人とも、突然会えなくなることってやっぱりあるんだな、と。
人との関係や、日々の過ごし方をもっと丁寧に、大事にしていきたいな、と、当たり前のことを改めて思い出させてくれる、漣さんの楽しそうな、本当に楽しそうな姿でした。
とはいえ、最終回のしんみりとした空気が、漣さんの不在とあまりにも重なって、こんな悲しい効果を生むことになるとは関係者さんたちの誰も思っていなかっただろうな…と胸が痛みました。
特に不自然に漣さんが席を外しているという設定のシーンでは、ああこのシーンはひょっとして亡くなった後に撮影したんじゃないのかなあ、とどうしても思ってしまったり。4話のユースケサンタマリアも不自然に暗幕の中でトランシーバー越しに監督やったりしてたから、あれもスケジュール調整つかなくて無理やり別撮りしたんでしょうね。皆さんの努力と団結力がしのばれます。
漣さん不在の打ち上げのシーンなんてもう、しまっこちゃん役の子が半泣きなの絶対演技じゃないよね、みたいな。そこを明るく盛り上げてるジャスミンすごいな、とか。で、なんでこういうシーンにぴったりの漣さん1人ドラム缶風呂のカットがあるんだよ、とか。つっこまずにいられない。
トモロヲさんが舞台で不在だった期間に別撮り編集でつなげた技がこの土壇場で活かされていて、賑やかな盛り上がりの向こうに本当に漣さんがいてくれるような。ちょっと別の仕事で抜けているだけのような。みんなそんな気持ちで外を覗き込んで声をかけていたのかな、なんて思いました。
竹ピの生演奏を聴く5人の画は撮れてて嬉しかった!
寺島進さんが最終話に特別ゲストで出てくれるかしら、と思ったけどなかったですね。ちょっと残念。でも番組の最後に「またあう日まで」って書かれていたから、もしや三期もあるのか!?
漣さんも、松重さんも、エンケンさんもトモロヲさんも光石さんも、他のキャストやスタッフの皆さんも本当におつかれさまでした。
大杉漣さんの遺作が、この作品で良かったんじゃないだろうか。あんなベテランの俳優さんが、こんなにも楽しそうに、同じくベテランの俳優さんたちとキャッキャウフフと、和気藹々と、わちゃわちゃしている様子なんてそうそう見られるものじゃないのに、そんな貴重なものを2クールもかけてこんなに惜しげもなく見せてもらえて、本当に楽しかった。
良い作品を、不測の事態にもかかわらず最後まで作り上げて放送してくださったテレ東さんにも、ありがとうございました!
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ここからは、蛇足な私事で恐縮ですが。
今回の漣さんの訃報に、9年前に亡くなったオット父のことを思いました。
これを機に、父のことをお話させてください。
漣さんは66歳、父は63歳で、漣さんと同じく突然の別れでした。
旅行中の不慮の事故で、知らせを聞いて特急で現地の救急病院に急ぎ向かい、最初はこのまま入院が長引く場合もあるのかもしれないね、なんてオットと話していたので、特急車内で現地の母から「お医者さんにもう手の施しようがない、と言われた」との連絡を受けた時にも、まだ信じられませんでした。
病院に駆けつけた時には、もう意識のない状態でした。
普段多忙なオットもオット弟くんもその日はたまたま自由が利いて、妹ちゃんも一緒に、家族全員で、心臓が止まるまでの2時間を枕元で過ごすことができたのは、おそらく幸運だったのだと思います。
亡くなってからの1週間は、それまでの人生で一番長かった。
忌引きって休みじゃないんだな、と実感しました。人1人亡くなると、事務手続きやら方々への連絡やら葬儀の取り決めやら、やることが山のように降ってくる。うちの場合はこれも幸運なことに、実務能力に長けた子供たちが3人もいたので、全員で分担しながらテキパキと事を進めていくことができたのですが、台風の影響などもあって予定より延びてしまった葬儀までの1週間は奇妙に間延びしていて、もったりとした葛湯の中をかきわけるような、不思議な時間の流れの中を過ごしました。
雑務のために外出して街を歩いても、お父さんよりあきらかに年上のご老人とすれ違うたびに、涙が溢れて止まらなくなったり。
お父さんよりあんなに年上そうな人が元気に歩いているのに、どうしてお父さんは死んじゃったんだろう、と思えてしょうがなかった。
ちょうどその頃モーニングに載っていた『宇宙兄弟』では、日々人くんが月面での事故で瀕死の危機にあるという緊迫した状況が続いていて、毎週固唾を飲んで見守ってしまったり。
当時は連日深夜まで事務手続きのため、そして母を励ますために子供たちで代わる代わる実家に泊まり込んだり通ったりの生活をしていたので、その日も弟くんと駅までの終バスを待つ間に、『宇宙兄弟』ね、助かってよかったね、なんて話をしました。
弟くんも、物語の展開としては、あのまま弟が亡くなって、その遺志を兄が継ぐ、っていうのもありだろうから、どっちにいくかな、と(ハラハラしながら読んでいた)。でも、助かってほしいな、と。
そんな風に言っていて、ああ同じ気持ちでいたんだなあと思いました。ね、本当に。助かってほしかったよね。だから良かったね。
ここにこれまで、父の話を書かなかったのは、あまりに個人的すぎる、そして悲しい話だから、というのもありました。
だけど、それ以上に、このブログ上で訃報を書かずにいれば、父はブログ上では生きていられるような気がして。
わざわざ書かなければ、これまでにちょくちょく書いてきた父の話を読んでくれた人たちの中では、あの面白いあひるちゃんのオットくんのお父さんは、そのまま変わらずにどこかで生活し続けている。
そのままでいてほしかった。
生きていてほしかった。
そんな気持ちが大きかったです。
今でもそれは変わりません。今年で10年経つのですが、いてくれたら良かったのにな、と思わない場面はない。
特に2014年、父が亡くなって5年後に孫が3人も生まれて、子供たちが、…オットと弟、妹がこれまでオット家の子供たちだったけれど、もう「子供たち」と言うときに指すのはオットたちではなく、私たちの子供たちのことになりました。私たちオット夫婦も、弟夫婦も妹夫婦も親になって、オットのお母さんはおばあちゃんになって、オットのお父さんは、一度も会えずに写真の中のままだけれど子供たちの「おじいちゃん」です。
小さな子供たちの成長の折々を、日々の何気ない仕草を、お父さんにも見せたかったなあ、と思わずにいられない。
理系研究職で、真面目で勉強家で、オットたちが子供の頃には厳しくて口うるさかったというお父さんが、お母さんによるとオットたちが小さい頃には「スーツくらい脱いだら?」と言いたくなるくらい、仕事から帰ったら玄関から真っ先に子供たちの前にしゃがみ込んで一緒に遊んでいた、本当に子供が大好きな人だったの、ということなのですがオットも弟たちも子供の頃すぎて覚えてない、あの親父がそんなんだったとは想像できない…と意外がるくらい子煩悩だったというお父さんが、孫を相手にどんなふうに愛想を崩すことになってしまったのか、あの照れ屋できちんとしたお父さんの好々爺っぷり、見てみたかったなあ、とも思うのですが、今のオットや弟くんを見ているとまさしく「コートくらい脱いだら?」と言いたくなるくらい、仕事も削って自分の時間のほとんどすべてを費やして全力で子供を構っていて、これが若かりしお母さんが目撃していた、在りし日のお父さんが、幼かったオットたちを可愛がっていた姿なのだろうなあ、と思うと、そんなオットや弟の姿もお父さんに見せたかった、妹ちゃんも、一番年若いのにどっしりした立派なママっぷりで、弟ヨメちゃんも同じく落ち着いた頼りになるお母さんで、妹ダンナくんも若さとアウトドア好きを活かして子供たちを連れ出してくれて、みんな自分の子供たちもうちの子のことも等しく可愛がってくれて、しょっちゅうしょっちゅう集まってはお母さんを孫まみれにして賑やかに過ごしています。
そんな様子を、見てほしかった、ここにお父さんもいてくれたらどんなにか、と、思わずにはいられないのですが。
今回『バイプレイヤーズ』の最終回を見て、賑やかな打ち上げの席で、外でドラム缶風呂に入っている漣さんに向けて明るく呼びかけるバイプレイヤーズの皆を見ていて、ああ、そうなのかもしれない、と。
うちもこうなのかもしれない、と。
お父さんは、すぐそこにいるんだろうな、と。
それは、よく言われるような「きっと天国で、あるいはすぐそばで見守ってくれている」という、魂がどうみたいな話というよりは、個人的にはそうですね、父を知る身近な人間がそれぞれに、生前の父だったらどうしただろう、父だったら何て言うだろうか、と考えること、そうすることで、父の存在というのは私たちと共にあり続けるんじゃないのかな、と。
オットの中に、みんなの中に、私の中にもこうして。
それでいいんだろうな、と。何となく思いまして。
うん、知ってたけど。知ってたな。
だからというか何というか、漣さんに寄せて、父についてもこうして書かせてもらうことにしたのでした。
長々とした文章をお読み頂き、ありがとうございます。
漣さんのご家族の皆様のご心痛は、9年前の自分たちのことを思い起こしても、想像するに余りあります。まだまだ呆然とする余裕も実感もないまま、多忙な日々をお過ごしなのではないかと思います。1ヶ月、3ヶ月、半年、一年と、時が経つごとに悲しみが増したり引いたり、心身ともに大変な時期が今しばらくは続くでしょうから、どうぞご家族皆様で支えあいながら、時が悲しみを洗い流して、楽しい思い出や、輝かしいものを残していってくれるのを、少しでも穏やかな気持ちで待っていられますように、陰ながらお祈りしています。
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関連あひるリンク集。
■2017-01-30 テレ東おっさん萌えドラマ『バイプレイヤーズ』と、遠藤憲一さんの『マトリックス』ナレーションとオットくん
■2018-02-08 バイプレイヤーズ無人島編、やっぱり面白かった
オット父話。
■January 06, 2006 ロマンティックなマリアージュ ~『博士の愛した数式』
■November 18, 2008 オット父のヨメ観
コピペ系。この辺はすべて亡くなった後。
■December 23, 2011 父への感情はこんなふうに変わっていく
■May 23, 2016 亡き父はレースゲームの中にいた―「ゴースト」通じて再会した青年
■September 12, 2015 父から貰ったお下がりのズボンのポケットから出てきたレシート
オット一家の良い話系。
実はこれも、お父さんが亡くなった後の報告のための訪問でした。遠方で高齢のため葬儀に来られなかったおばあちゃんとはメールで密に連絡を取り合っていたのですが、いつも「あなたたちのことは何も心配していませんよ、お母さんのことをよろしくね」と、息子を亡くした悲しみをおして温かく見守ってくれていました。
■January 26, 2010 オット家の女たち ~ Granma’s Lemon Cookie
■March 09, 2010 おばあちゃんと14人の孫
そんなおばあちゃんが亡くなった頃に書いたもの。
■December 30, 2012 おばあちゃんとお揃い、コーラルピンクのチーク&リップ
弟くん結婚話。
実はこれも、お父さんが亡くなったことを機に弟くんは結婚を決意したのだそうです。そんなことを会の締めの挨拶で弟くんが語ったらもちろん列席者全員号泣だったけど1人は最後まで涙が止まらなくなっちゃって泣きながら帰った男性もいました。
■January 14, 2010 brother’s wedding
妹ちゃん結婚話。
実はこれも、妹ちゃんが結婚式を10月にしたのはお父さんが亡くなった月であり、同時にお母さんの誕生日のなんと前日でもあったので、これから毎年自分の誕生日を悲しい気持ちで迎えてほしくない、少しでも明るい思い出を加えられたら、と最後のスピーチで話してくれたのでもちろん列席者全員号泣。
■October 28, 2012 our little sister’s wedding
我々の結婚記念日…は特筆すべきこともないですかね…そういえば先日15周年だったんですがなんにもせんで終わった。まあしかし、家族親戚田中にいたるまでこんなにも良い人ばかりで私もそこに入れてもらえることになるだなんて、高校の時に片思いしてた頃には思いもよらなかったなあ。あの頃の俺、そいつ離しちゃいかんで。もっと食らいつけ。
■March 03, 2013 10th wedding anniversary
これも実は父が亡くなった後。
お母さんは本当に相変わらず、こういう上品で可愛らしいかたです。子供たちもみんなおばあちゃん大好きで、来てくれると玄関まで全員ダッシュでお出迎えします。幸せな光景。
そして始まるセカンドシーズン。
■2014年12月25日 [お知らせ] こどもがうまれました