家庭というものがうまく機能する時、前編 [まじめに][亡きオット父の話1]

博士の愛した数式(新潮文庫)
小川洋子
新潮社
2012-07-01



今回は、「真面目に」系の長文です。
家族の死についての文章で、一部には詳細な記述もあります。苦手な方は無理せず、閲覧を避けていただけたらと思います。

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先日、私の実母の話を何回かに分けて書き綴りました。読んでくださって、そしてたくさんのハートをくださって本当にありがとうございました。

自分の育った背景の話、元の家庭の話がひと段落したので、今回からは、結婚後の新しい家庭、オットの生家と家族の話、そこから長く躊躇してきた子供を持つことについて、持ちたいと思えるようになるまでの、自分の心の軌跡をたどっていこうと思います。

ずっとどこかに書き残しておきたいな、と思って、オットの父が亡くなった12年前に書き留めておいたものを、何年かに一度ふと思い立った時に手を入れながら保管してきた文章です。一番の原型は5年前、父が亡くなって7年目の2016年に書いたもの。
5年も経っているので、書いた当時と今では変わってしまったことも多々ありますが、そのまま載せることにします。まずは前編から。

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オットの父が事故で急逝したのは秋だった。今年(※2016年当時)で7年経った。私とオットは34歳、父は63歳だった。まだ早い。まだ若過ぎる。突然の事故だった。母と二人して60歳前後で退職し、ようやくのんびり余暇を楽しむ時間ができて、夫婦であちこち旅行に行っていた、その旅先(国内)での出来事だった。

あの時、オットをはじめ弟妹たちがきゅっと団結し、気が遠くなるような煩雑で多岐にわたる事務処理をテキパキと分担して片付けていきながら、冷静かつ温かく母を支え、互いに裏に表に励ましあっている様子を目の当たりにし、機能不全家庭で育った私は、家庭というものがうまく機能すると、こんなにも素晴らしいものが出来上がるのか、と感嘆した。これが完成形なのかと。

大きな仕掛け時計の針が重なり、おもてからは見えないところで大小様々な歯車が静かに噛み合わさっていき、大掛かりな見た目から想像させられるよりもずっとかすかな音を立てて扉が開き、時を告げるささやかなショーが始まる。
そんなふうに、人生観が変わった瞬間だった。

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オットの父は理系研究者で、真面目できちんとしていて、妻にとっても子供たちにとっても基本厳しく、時に煙ったい、温かく頼りになる存在だったようで、一家の中心だった。退職してからは旅行好きの母に付き合って二人であちこち出かけたり、家庭菜園をやったりで忙しくしていた。3人の子供たちもそれぞれ仕事や遊びであちこち飛び回り、全員が集まるのは年に1〜2回だったし、会う時は大体みんなでわいわいと、たまにオット抜きで私だけ顔を合わせることもあったが、父と母は毎回セットだった。

だから、亡くなってから初めて母とだけ会って話をするようになり、父がいかに家族みんなのことを大事に思っていたかを知ることとなったのだった。
その気遣いは亡くなるまでの10年弱をともに過ごした私に対しても同様に向けられており、あまり愛想が良いわけではないけれど好奇心旺盛な父は、私の前職や趣味など、私が興味を持ちそうな話題を会う時はいつも振ってくれて(事前に調べてすっかり詳しくなっていてびっくりした)、目の前にいない時でも参考リンクをメールで送ってくれた。弟が彼女(のちに結婚)を連れてくるようになってからは、彼女さんに対しても同じようにしていた。無理やり付け焼き刃な知識を持ってくるわけでもなく、年配、年長の男性にありがちな上から目線のひけらかしでもなく、純粋に興味を持って調べたのであろう、的確な基礎情報と鋭い見識と、こちらがその場で提供する情報や体験談に対しても熱心に聞いてくれて、会話がとにかく楽しかった。穏やかで紳士的で、ややシニカルな、四角い眼鏡をかけた理系研究職の義父。はにかみ屋で、決して朗らかににこにこする人ではなかったけれど、不思議と話が弾む。改めて思い起こしてみるとオットとよく似ている。遺影を探す時、笑顔の写真が本当に少ないのよ、と母が困っていた。

父には母が、母には父がいるから大丈夫だろう、とみんな思っていて、実家のことはほったらかしだったし、実際それで大丈夫だった。最期まで両親と一緒に暮らしていた妹は別として、オットも弟も自分が家を出てからの両親がどうしているかあまり知らなかったようで、どうかすると頻繁にメールや電話でやり取りしていた私の方が詳しいくらいだった。

忙しい忙しい言ってないで、たまに実家に集まる時くらいみんなと予定を合わせてよ、お父さんもお母さんも会いたがってるし、仕事の話も聞きたがってるよ(オットは学生時代から早々と事業を立ち上げた個人事業主で、普通の勤め人よりは色々と不確定要素も多く、仕事や体調のことを両親はいつも気にかけていた)、とオットに言っても、今抱えている仕事がどれだけ大変でどれだけ自分にしかできない案件か、という話が滔々と始まるか、PCに集中していて返事が返ってこないかで、私一人がイライラやきもきして、オットの予定が決まらないせいで両親や弟妹たちを待たせること、それについてオットの代わりに謝ることに辟易し、最後の数年はオットが渋ったらとっとと私だけ参加することにしたりもしていた。そうすると、結果的にはなんだかんだで都合をつけてオットも来ることが多かったのだが。

父が亡くなって数日の頃、オットが、私がそうやって自分を無理矢理にでも引っ張り出したり、自分の代わりに両親と交流したり、自分が話さない仕事の様子などを両親たちに話してくれたり、橋渡しをしてくれていたおかげで、きっとこうなった今も後悔が少なくて済んでいるんだと思う、ありがとう、と言ってくれた。自分だけだったら、きっと仕事の細かい話なんて面倒だし照れくさいし、わざわざ親に話したりしなかった、もっと話しておけばよかったと後悔したと思う。ありがとう、と。

弟が、事故と危篤の知らせを受けて仕事先から駆けつける際、仕事相手の人から「こういう時は、家族みんな特殊な精神状態になって、普段は言えないような感謝を言葉にできたり、むき出しの感情でいろんな話ができると思う。人生でなかなかない貴重な時間なので、大事に過ごして」と言ってもらったそうだ。オットはそれを、実家に泊まり込んで数年ぶりに弟と布団を並べて横になっている時に聞き、数日置きにうちに帰ってきた時私に話してくれたのだ。

後で振り返ると、確かにその通りだった。

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(後編へ続く)
2021-10-07 家庭というものがうまく機能する時、後編 [まじめに][亡きオット父の話]

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