阪神淡路大震災から30年、関連映画『その街のこども』と『港に灯がともる』情報

阪神淡路大震災から30年が経つのですね。何度かご紹介している映像作品『その街のこども』が、今年あちこちで記念上映されるそうです。

それから、こちらのリンク先の公式ツイッター投稿では2分近い予告映像が見られます。もしかしてしんどい気持ちになる方もいらっしゃるかもしれないので、埋め込みにするのは控えました。

『その街のこども 劇場版』(1月に再上映決定) @sonomachi_movie

阪神淡路大震災から30年。 15年の節目で制作され劇場公開も果たした「その街のこども」が今年、各地で再上映されます。昨年の能登半島地震を始め、災害に見舞われ今も日常生活を取り戻せずにいる方々がいる中で本作を観るのは辛いと感じる方もいるかもしれませんが、そんな人々にも寄り添う傑作です。


主演のお二人のコメントはこちら。



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ここからは、友人C美がこれ見たいと教えてくれた映画『港に灯がともる』について。
現在再放送中の『カムカムエヴリバディ』のプロデューサーさん、ディレクターさんが関わっていらっしゃると。

映画『港に灯がともる』:阪神・淡路大震災から30年、主演・富田望生&安達もじり監督が語る「心の復興」 | nippon.com


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以下、関連あひると、今年改めて思うことなど。

当時19歳で、東京にいながら思ったことなどを一番詳しく書いたのがこちらの記事。
2021-01-17 阪神淡路大震災から26年

2015-01-06 阪神・淡路大震災を描いたNHKドラマ『その街のこども』、1月12日に再放送

2009-03-29 こどもニュースのお父さん交替、鎌田靖さんが子供に阪神淡路大震災を語る

こうして過去に書いた記事を並べてみても、2009年の後には2011年の311が、2020年にはコロナ、昨年2024年元日には能登半島沖地震、新潟や熊本の地震や台風被害も入れたら数え切れない災禍に見舞われている私たち…。私たち、とは言っても、前にも書いたのですが地域が少し違うとまるで平穏な日常が繰り広げられていて、そのことに傷ついてしまったりも。

ただ、こういう時に思い出すのが、村上春樹氏が2011年6月のカタルーニャ国際賞受賞スピーチの内容です。

我々日本人は春になれば桜を、夏には蛍を、秋には紅葉を愛でる、その刹那的な美、”無常”というものを受け入れる精神性を持っている、そのことと関係があるかは定かではないが、我々は同時に、次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では仕方のないものとして受け入れ、克服しながら生き続けてきた、と。

ハルキ作品について色々こきおろしてしまいましたが、このスピーチには随分と勇気づけられました。それから2009年のエルサレム賞スピーチにも。こういう場に、逃げずに出ていき、自分の言葉の影響力を把握した上で率直に語る春樹氏のことはまだちょっと好きかもしれません。今後のことはわからないけれど。

2011-06-12 村上春樹 カタルーニャ国際賞受賞スピーチ、動画と原稿全文 [地震関連]

”前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。”


2009-02-18 村上春樹のエルサレム賞スピーチメモその4、動画と口語的英文【リンク元、日本語訳追記】

 「高くて硬い壁と一つの卵との間で衝突が起こったら、私はいつでも卵の味方をするだろう」
 そう、どれだけ壁が正しくて、卵がどれだけ悪くても、私は卵の味方をします。他の誰かがどっちが正しくてどっちが悪いかを決めるでしょう。多分時間や歴史が決めるのでしょう。

我々は国籍や民族や宗教を超えて個々人の人間で、システムと呼ばれる高い壁に相対しているもろい卵なのです。誰の目から見ても、我々に勝ち目はありません。壁は高すぎ、強すぎ、そして冷たすぎます。もし我々に勝利の望みがあるとすれば、我々自身、そして我々の魂の独自性とかけがえのなさを信じること、そして魂が寄り集まって得られる暖かさに由来しなくてはならないと思います。


30年、という時間を、長いと感じるか、まだ、と感じるかは人それぞれなのだと思います。きっとどれだけ時が経っても癒えない悲しみも、消えない恐怖心も、手離せない後悔もあるのだろうと。それでも、この神戸の震災以来の傷が、少しずつでも薄くなっていくように祈っています。改めて、ご家族ご友人を亡くした方へ、心よりのお悔やみを申し上げます。

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追記。
あっ『大阪豆ゴハン』のサライネスさんが!当時の漫画を載せてくださってる!のほほんな絵柄なのでそのまま載せてしまいますが、リンク先は被災して荒れた部屋などの描写があります。そうそう、ここで美奈子が言っている「淀川を隔てた日常感が怖かった」という意味が2011年にわかった気がしたものです…。そして「(95年の)震災の頃はまだ戦争体験世代が元気だった」かあ!なるほど…。


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