産着を絞っていた一瞬で思い出したこと[まじめに][機能不全家族]

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上2つに続きもうひとつ、元家族(正式な心理学用語では「原家族」と表記するみたいですが)の話です。私自身が子供の頃の悲しい記憶の話で、2016年に書いたものです。3000字。

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■産着を絞っていた一瞬で思い出したこと

最初に書いた一つ前のノートがたくさんの人に読んで頂けたようで、ハートもたくさん頂いて嬉しくなって、甘えてつい続き。こんな一人語りに付き合ってくださってありがとうございます!優しい世界。

子供(男の子)が3ヶ月くらいの頃だろうか。ちょっとミルクを吐き戻しちゃったか何かで産着が濡れて、ちょっとだけだし着替えさせるほどでもないか、と、裏からタオルを当ててそこだけぎゅっと絞ったことがあった。なんてことのない子育ての一場面。顔を寄せて覗きこむ私をじっと見つめる息子。産着をぎゅっとつまみながら思うともなく、あ、これ肉をはさんじゃったら痛いな気をつけないと、つねることになっちゃう、と思い、……ああ、私、子供の頃母からよくつねられたなあ、と思い出した。

幼稚園に遅れる、という理由で、毎朝通園の自転車の上でつねられた。朝の支度が遅い!スモッグは、カバンは、帽子はどこへやったの!?と怒鳴られ、乱暴に自転車の後ろに乗せられ、あんたのせいでまた遅刻ギリギリよまったく!とぶつぶつと肩を怒らせながら前で自転車を漕ぐ母が、信号待ちのたびに後ろに手を回して罵りの言葉を歯の隙間から絞り出しながら手探りで力いっぱい私のふとももをつねってくる。不安定な自転車の上で身動きできない恐怖と、つねられる痛さとみじめさ、泣くのを我慢している苦しさで毎朝自転車の後部座席で硬直していた。泣くともっと母を苛立たせる(泣けばいいとでも思ってるんでしょうあんたはまた!)ということを4〜5歳にしてすでに体得していた。
毎日ではなかったのかもしれない。でも一度や二度でもなかった。これが一番古い記憶じゃないかと思う。

どこかで、日本では”虐待”というと殴る蹴るの暴行を加えられる、死ねばいい、産むんじゃなかったと罵られる、などの最悪なものしか連想されず、そこまで苛烈ではなくとも日常的な毒を受け続けるタイプのものは軽んじられる傾向にある、と読んだことがある。ここ数年でこそ「毒親」という言葉や存在が認知されてきているが、まだまだ当事者や世間が虐待だったと認められるようになっているかというと、それは別問題であるような気がする。加害者である親はもちろんのこと、被害者である子の方も「虐待というほどひどいものではなかったんだけど」なんてつい人に説明をする機会がある時にエクスキューズをつけてしまう。私もまさにそうだった。一言一句同じ。虐待というほどひどいものではなかったんだけど。

(少し追記)
幼稚園の頃の「つねられた記憶」だけをもって虐待だったと思っているわけではなく、他にもカッとなった母に腕を掴まれて家中引き回されたり、何十分も怒鳴り続けられたり、交友関係を遮断されたり、バイトを始めてからはお金をせびられたり、色々色々あった。どれも主に母で、父は私のことはベタっ可愛がりする一方、そんな母を見て見ぬふり、あるいは気が向いたら殴る(母を)、という介入しかしなかった。
これよりもっと過酷な目に遭ってきた人ももちろんいる。それでも親の元に留まり続けている人もいる。私程度の被害で絶縁という逃げのカードを切るのは甘えが過ぎるのかもしれない、とも思う。
(追記以上)

今この子をつねったら、きっとびっくりした顔をして、まず肉体的な痛みと、少しあとでくる精神的なショックとで一拍間をあけてからみるみる泣くだろう(ほっぺに蚊が止まった時に思わず叩いてしまい、まさにそういう複雑な心理状態の動きが表情に現れていたことがあった。すまんかった。追い払うだけにすればよかったんだよね)。子供の私もきっと泣いただろう。どうして母は毎日毎日あんなひどいことを子供に対してできたんだろう。どうしてこんなふうに、なんの作為も邪心もない、いとけなくただ生きているだけの、やわらかくてあたたかい存在に、あんなことしかできなくなっていたんだろう。もちろん原因は出来婚で無理矢理結婚した父との不仲だったり生活苦だったりしたのだが、どうして誰も彼女を助けてやれなかったんだろう。どうして娘が子供まで産んでいるのに(それもだいぶ前に)、それを伝えたいとすら思ってもらえないような親子関係しか育めないまま、ここまできてしまったのだろう。

一人の女性の人生として母のことを考えると悲しくなる。だけどそれはもう仕方のないこととして置いておくことにしている。少なくとも私がこの子に、私が受けたような理不尽な有形無形の暴力をふるわなければ、この子はあれを知らずにこの先の人生を送ることが出来るのだ。それってすごい。なんてすごいことなんだろう。あれを知らずにいられるなんて。オットがその手の暴力をふるう心配はまったくいらないので、私さえやらなければ、とここまで思ってから、……ああ、オットとオットの弟妹たちがまさに、あの暴力を知らずに育っている人たちではないか!

そう思い至って、もう何というか、敵わない、とため息が漏れる思いだった。
子育てをすると親の有り難みがわかると一般論ではよく言われる。私は子育てをしてみて、ああ自分はやっぱり虐待されていたんだな、と思うようになった。そんなふうに思いたくはなかったけど、それはDV男とつきあっている女性が殴られた痣を隠しながらあの人ほんとは優しい人なの、ちょっと当たっちゃっただけなの私が生意気を言って怒らせたから、と弱々しく笑ってみせるようなものだ。やっぱりあれは暴力以外の何ものでもなかった。誰かに少し話してみても、今までみたいに「だけどそんなに立派に育っているんだからきっと愛情もかけてくれたはずだよ、感謝もしなきゃ」そんなふうに言われてしまうのかもしれない。そういう葛藤の時期はもう20代の前半までに通り過ぎました。愛情や楽しかった記憶があるからこそつらい。手作りのおやつや服と、家族皆で笑いあいながらボードゲームを囲んだ情景と、紛れもない暴力の気配が常に家庭の中に混在していたからこそ深く混乱し、緊張し、煩悶してきた。

けれど、人に判ってもらえなかったとしても、うまく伝えられなかったとしても、自分の中の何かが減るわけではないのだ。何も変わらない。やられてきたことの残酷さも、小さな私のかわいそうさも、若かった母の孤独も。

産着を絞っている一瞬の、初夏の夕暮れ前の薄明るいような薄暗いような、はざまの時間の黙孝の記録でした。

(2016年9月21日)
(初出:shortnote)

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