東日本大震災から10年、悔恨の記録【後編】被災して2日後やっと帰宅したオットを責め立てた話 [真面目に][311][すごく暗いです]

2021-03-10 東日本大震災から10年、ニュース記事などリンク集
2021-03-11 東日本大震災から10年、当時感じたこと、直接被災していないのに傷ついていた

2021-03-17 東日本大震災から10年、悔恨の記録【前編】オットの被災体験、ホテルは良いとこ選んどけ [真面目に][311]

前編の続きです。
震災当時の克明な描写になりますし、特にこの後編は心の内の闇というか、暗く鬱屈した内容になると思うので、引きずられそうな方は読むのを控えるなどご無理なきようお願いいたします。

ーーー
その日、2011年3月12日の夜19時頃でした。
オットからのメールで「これからMさん(仮名)が車で迎えに来てくれるらしい」と報告があり、私は仰天しました。

えっ東京から!?下道で!?仕事仲間の中でも義理人情に厚い行動派な男性が、迎えに行くよ!と連絡をくれたのだそうです。

(このような行動は、二次災害を引き起こしたり、救助車両の通行を妨げる危険があり、社会的に推奨されていない行為です。結果的にオットを無事に連れ帰ってもらえたとはいえ、違う結果になっていた可能性もあるため今でも複雑な心境ですし、ここにこうして書くのはあくまで自分の個人的体験を残しておくことが目的であり、このような行為を安易に礼賛、推奨する意図ではありません)

3月12日、本震の翌日です。まだまだ余震も続いているし、道路はあちこちが陥没、浸水で通行不能になっているとの報道もありました。
正気なの!?と正直思いました。
しかも、津波です。
黒い津波が次々に、田畑を、道路を飲み込み、家を、マンションを、車を押し流している映像が11日の本震の1時間ほど後に初めてTVに映し出された時、居間の真ん中で私は棒立ちになりました。オットのいる地域は大丈夫なのか。慌てて検索すると、オットがいた県でも海沿いは工場が津波に破られ、車やコンテナがぷかぷかとお風呂のおもちゃのように海に浮いている映像が放送されていました。
さらに検索すると、オットのいる県から都心へ戻る主な道路は長い海沿いの道でした。山側の道もあるけれどそちらは崖崩れなどで通行できないかもしれない。
あげく、原発の爆発です。3月12日の15時36分に建屋が爆発、放射性物質を避けるため外出を控えるべきではないのかとネット上は大騒ぎでした。
こんな状況下で、無理矢理車で戻るなんて無茶だ!

電池の消耗を抑えるために通話は控えていたのですが、私はたまらず電話をかけました。そこでさらに驚愕、津波がくるかもしれないんだよ、と言うとオットは「そうらしいね」「ネットでは言われてるけど、停電中でテレビ見れないから、実際の映像では見てないんだよね」と、事の重大さがピンと来ていないような返事。311以前には私にとっても「津波」と聞いて想像するのはなんとなくサーファーの波乗りのような漠然としたイメージでした。だけどあの映像を大きなテレビで、高精細な画質で、右上に「LIVE」の文字つきで見せられるとこれまでの概念が吹っ飛びます。一発でわかる、命がなくなる。車が、家が、小ぶりのビルが流されてるんだよ!?そんな中で移動するなんて無理だって!それに原発だって爆発してる!

「それも、報道では知ってるけど、ここ(避難所)にいる人たちの大部分は知らないと思うよ。俺たち(一緒に避難している仕事仲間)はiPhone持ってて充電器もあるから、時々充電させてもらいながらiPhoneの画面でニュース映像も見ていて、一応状況は把握できてるけど、そういう情報を他の人たちにまで共有できる雰囲気でもないし、下手に言ってもパニックになりそうだし、俺たちだって断片的な情報しか入ってきてないから何もできないし」

これにも驚愕しました。なんとなく、避難所に行けば津波や原発事故などの重要な情報は、避難所を統括している団体(警察?消防?)が共有してくれているものとばかり。何にも知らないのか!!だったらなおさら、動かないでほしい!!と、直接オットと話してますます強くそう思ってしまいました。

そのままじりじりと何時間も待つしかなくて、後から数えてみると12時間ほど。ずっと異常な不安に晒されていました。必死だったせいで、視野がこう、競走馬のように狭くなってですね。
Mさんが到着した、今から出発、というメールが来たのが日付が13日に変わる頃。お母さんからもそんな夜中に車で避難だなんてやめさせてって言われてる。私もほんとその通りだと思う。考え直してください、迎えが来てもあなただけは乗らないで避難所に残ったらいい、お願いだからやめてくれ、とむちゃくちゃメール出したり電話かけたりして。海沿いを離れても今回の津波は安心できないし10時間も運転し続けている人の車で真っ暗ななか即座に戻るなんて危険この上ないし、信号もついてないはず。やめてくれと鬼電鬼メール。まあ、迷惑ですよねものすごく。電波も電池も無駄にして。

そうやってじりじりイライラ1人爆発しまくっていた時に、知人とチャットで話したんですね。
同年代の女性で、お互い当時30代半ば、お互い既婚だったのでよく結婚生活の軽いグチやらあるあるやらで盛り上がったりしていた人。それでつい、これこれこういうわけでオットが無理矢理帰ってくるって言ってる信じられないやめてくれって言ったのに聞いてくれない、と、わーっと訴えてしまって。文字チャットだけどけっこうな剣幕で。

そうしたら、そんなこと旦那さんに言ったら絶対ダメだよやめて!今後の結婚生活に一生禍根を残すよ!冷静になって、頭を冷やして、とけっこう強く言われて(と感じた)。

それでますます、誰も私の気持ちをわかってくれない!!と意固地になってしまったんですよね、後になって振り返ると。
その時の私は、その人に反対されてから他の人に相談するのも怖くなってしまい。自分が否定されることが。他の人にもそれはあなたが悪いよ我慢しなきゃと言われたらと思うと怖くて、誰にも連絡できないままギリギリジリジリと閉じて過ごしてしまった。朝まで、オットの顔を見るまで。
それがいけなかった。

たぶん私は、あの焦りと不安に、ただ共感してもらいたかったんだと思います。
そうかそれは確かに心配だね、と、私がその時点ですでに丸一日以上抱え続けていた心配や怖さを吐き出させてほしかった。

今10年ぶりに当時のメールのやりとりを見返してみると、オットの母からも頻繁にオットの様子を知らせてほしいというメールがきていて、安全なところにいるのか、自家発電のホテルなら安全なのになぜわざわざ避難所に移動するのか、避難所は高台にあるのか、ちゃんと食べてるのか、とひっきりなしに質問が来て、それをいちいち私が中継していたような状態だったので、自分1人の不安だけでなく母の不安まで受け取って増幅され、拍車がかかっていたのだと想像できます。オットからの返信も、通信制限のせいか30分も遅れて届くこともあったのでなおさら不安が募った。
それからオットの海外の友人カーター宛に「彼は無事だよ」とたどたどしい英語でメールを出したりもしていた。
オット宛にも市のツイッターアカウントを送ったり、災害情報を調べて送ったり、オットから聞いた避難先の中学校の名前でGoogle検索して地理を確認したりしていた自分。
不安に駆られつつ、できる限りのことをしようとしていた形跡が、当時のメールを読み返すとわかります。オットの友人や母の他にもオットの祖母や弟妹たちとも連絡を取り合ったり、自分の友人たちともやりとりしていたし、なんだかこう、必死だったなあ、と振り返ると思います。

そういうことをひとつずつ、吐き出させて欲しかった。
誰もが尋常でない状況の中で、通常と違う精神状態だったのだから、どうしようもなかったのだけど。
その人とのチャットのログも少し残っていて、10年ぶりに読み返してみたらオットが被災していることをすごく心配してくれていて、「一晩中繋いでると思うから、何かあったら電話でもチャットでも連絡ちょうだいね」と言ってくれている。私も「お母さんにはできるだけポジティブな要素を集めて伝えるようにしてるので、不安だねえ、と言い合うことができるのすごく有難い」とか言っている。ほんとその通りだったな。だったのにな。

結果的にその時の私は、抱え続けた不安と不満を誰にも言わずに悶々と煮え煮えと数時間ますます抱き込み続けて。孤独も苦痛も全部俺のもんだァァ!!!って幸村誠『プラネテス』のハチマキ状態ですね。あひるちゃんこのセリフほんと好きだよね

それで夜が明けてすっかり明るくなった13日朝、確か7時8時頃じゃなかったろうか。
非常の二日間を乗り越え無事帰宅したオットに、むちゃくちゃガチギレまくりました。
あひるちゃん、もしや今までオットにキレ散らかしてたのも全部ネタじゃなかったのか。まあネタではないんですけど全部。どれも実録。でもさすがにこういう時まで本気でキレ散らかしてたらもう全然ネタにならないですね。だからネタじゃなく悔恨の懺悔なんですけども。

まあ、ブチギレまくりまして。
ガチギレまくりまして。
ガンギレ散らかしまくりまして。
ブチ上げまくりまして。
はい。

ヒノカミ神楽、円舞!とばかりにひとしきりキレ散らかし斬り散らかしさんざっぱらやり散らかしまして。散らかってる。もしやオット散らかってる?大丈夫?息してる?もうほんとオットの防御力の高さ。しょんぼりしながら全部受け止め…いやどうかな、受け流し?ていて。とりあえず吐き出させはしてくれて。今思えばありがたかったです。

で、恨み念法円舞(技変わってる)がようやく鎮まった頃に、オット側の事情を説明してくれまして。どうして避難所にとどまらなかったのか、なぜ朝を待たず夜中に出発したのか。

まず、避難所といっても人が集められているだけで、特に情報も何も得られなかったこと。
これは後に調べたり詳しい人から聞いたりしたところ、当時は本当に未曾有の事態だったため本来の避難所だけでは足りず、臨時に体育館などを開放してくれていた自治体も多かった、オットが行ったのもそういう場所だったのではないか。そうして臨時の避難所が増えたことに加え、警察も消防も被害を受けていたり、災害地域が広すぎて思うようにカバーしきれなかったのではないかと思われます。

そして、避難所にも物資は足りていなかったとオット。12時間ほど滞在している間に配られた食料はおにぎり1つだけで、毛布も足りなかった。
だから、Mさんの車に乗れるだけの数人でもその場を去ることで、その分他の人へ食べ物や毛布を分けることができた。

さらに、Mさんが救援物資を積み込んで来てくれたので、到着した時は拍手で迎えられていた。みんな待ち望んでいた。停電と節電でろくに報道も見られず、外の世界で何が起こっているのかまったくわからない状況だったので、物資はもちろんのこと、Mさんが身体を張って持ち込んでくれた道路の状態や周辺の土砂崩れの有無などの情報は現地の人たちが何より欲しがっていたものだった。

それから、あちこちが陥没、断裂していた高速道路だけでなく、下道もまもなく東北への救援物資を運ぶトラック専用に封鎖され一般車の通行はできなくなる可能性が高かった(実際翌昼過ぎにはそうなりました)、だからMさんを休ませてやることもできず、すぐに出発するしかなかった。

そんな思いをして、10時間もかけて運転してきてくれた人に対し、自分は乗らない、ここに残るとはとても言えなかった。

そうオットは穏やかに言いました。
そうだったんだ…
それは確かに…その通りですね…
心配かけて悪かったけど、こちらにはこちらの、それだけの事情があったんだよと。
そうだったんですね…

なんかもう、色々ありすぎて放心状態になっている私。

とりあえずお風呂に入ってゆっくりして、やっとひと息ついたオットが、「そういえば、Mさんツイッターやってるんだよ」と見せてくれました。ほらこれ。

本震直後あたりから順番に見ていくと、「揺れた!」「でかい!」「これ大丈夫か!?」と始まって、揺れが収まった途端に「パトロールだ!」と家を飛び出しているMさん。もう!?早!!どんだけ行動派なの!?
「近所の人たちは大丈夫みたい」そして「仕事仲間の〇〇さん(オット)が〇〇市で立ち往生しているとの情報入手、迎えに行ってくる!」とホームセンターに寄って水や食料なんかをばんばん買ってどかどか積み込んで出発する様子も克明にツイートされています。これ(Mさんのツイッターアカウント)を先に教えておけばよかったね。そしたらもう少し様子がわかって安心できたかも、とオット。

OT「途中からハッシュタグ作られてたよ」

ええ!?
Mさんの動向をウォッチするために、自分〇〇市出身なので様子が知りたいです!ハッシュタグつけていいですか!っていう学生さん?に「いいよー!」と快諾、その後すごい数の人たちがMさんの行動を固唾を飲んで見守って、どこどこの道路は通行止め、こっちもやばい、ここは今は通れたけど数時間後には危ないから避けた方が良い、などの情報を逐次ツイートしていくMさん。何このロードムービー。すごすぎる。そのうち避難所に到着して(おめでとうございます!無事に到着良かった!と沸くフォロワー)現地の人たちと情報交換、仲間を乗せてさあ帰るぞ!そうしてそろりそろりと慎重な運転で通常以上の時間をかけ都心に到着、一人一人を自宅まで送り届け、ただいまー!

そして、私が遡って見ていたタイムラインがようやく現在に追いついて(2011年3月13日朝)Mさんの最新のつぶやきが、

「さーて、片付けるか!」

添付された写真は、ご自宅の本棚が倒れまくって本や雑貨が散乱しまくり、足の踏み場もない部屋の様子でした。

この。
この状態の自分ちをほっぽって、真っ先に外に飛び出したの!?
誰か助けを求めていないか!?って。
それでオットの状況を聞いて即座に行動をおこして。
ツイッター上でたくさんの人を引き連れて。
避難所の人たちに物資と情報を届けて。
代わりに仕事仲間を乗せて休みもせずに真夜中をひた走って。(※)
仲間を無事に家まで送って。
有形無形のたくさんのものを、たくさんの人に届けて。

その頃にはオットはソファで眠っていました。お風呂上がりにテレビをつけて、NHKの津波の映像を見てこれかあ、と言いながら、いつしかうとうと眠りこんでいました。
私はそんなオットに聞こえないように、台所に駆け込んで号泣しました。
嗚咽が漏れるのを止められないくらいぐちゃくちゃに号泣。ドラマや映画と違って現実世界でここまで全力全開で大人が涙を流すことってそんなにはない。人生で2回目くらいに激しく泣きました。1度目はオットお父さんの臨終のベッドの横だった。

もう、自分が恥ずかしくて。
なんて小さい人間なんだろうと。
心の底から。心の底からがっかりました自分に。
その落胆を、10年経った今も胸の奥に深く突き立てたままです。
私は、覚えておかなければならないと思いました。
こういう自分を。非常時に地金が出ると。人格の根幹、精神の構造のようなものが露呈するのだと。

私はただ、夫に自分の言うことを聞かせたかっただけだった。
心配していた気持ちはとうに吹き飛んで、「言うことを聞かない」夫に腹を立てていただけだった。
なぜ私の「正しい」提案に耳を傾けないのかと激怒していた。
相手の状況や、選択や、判断力を、まったく想像せず、信用せず、黙って言うことを聞いていればいいものを、と激昂していた。

なんて視野が狭く、身勝手で、役に立たない人間なんだろう。
Mさんに引き換え自分はどうだ。なんて未熟なんだろう。
命からがら帰宅した夫の無事を喜ぶよりもまず自分の辛さをぶつけて。
それを最後までじっと聞いてくれたオットもなんて穏やかでおおらかな人だろう。
それに引き換え自分は。

覚えておかなければならない。
この悔恨はきっとまたやってくる。
人間、根幹の性格なんてそう変えられるものではない。
どんなに後悔しても、反省しても、次に非常時がきたらきっとまた私は取り乱す。
自分の中にはそういうものがあるのだ。
スティーブンキング『ミザリー』の原作小説に出てきた、主人公の心の内にある湖の、不吉な杭のように。
月の引力で潮が引くたび、水面が揺れるたびに顔を出す杭。
そういうものが自分の中に埋まっている。
私はそこに目印を立て、戒めている。
いつかまた何か事が起きた時に、少しも取り乱さずにいることはきっとできない。だけど可能な限り早く気づけるように。冷静さを失っていること、不必要に相手を攻撃しようとしていること、そういう状態に自分が陥っている、と自覚できるように。

立っていられずにしゃがみ込み声を殺して泣きじゃくりながら、10年前、2011年3月13日朝、そんなふうに思いました。

これが私の悔恨の記憶です。
それを、この機会に、当時のメールやチャットのログを確認しながら記録しておくことにしたのがこの記事です。

ーーー

その後数年の出来事も含め振り返ってみると、半年後の2011年9月頃から始めた不妊治療やら(AMHが異常に低く通常の妊娠は不可能でしょうと言われた)、出産やら(大出血して大量輸血でICU入り)、オットの大病やら(これまたICU入り。今はすっかり元気です)、けっこう色々ありつつも、その都度それなりに冷静に対処できてきた気もします。それは何も311のこの体験のおかげとかではなく、こんだけ自分を罵っておいてなんだけどもともと自分に冷静で客観的な部分も備わっていたんだろうなとも思えるし、一方取り乱してあさってな行動を取ってしまったことももちんあったし、なんというか、人間の多面性、ってこういうことなんだろうな、と10年を経た今は思っています。

先ほど書いた、知人とのチャットのログをもう少し載せます。この人とのやりとりをきっかけに意固地になってしまったと書きっぱなしではあんまりなので、励ましてもらえた部分も。
「オットが車で帰ってこれるとしても、今避難所にいるのに、他の人たち置き去りでいいのかなあ、とかもちょっと考えてしまう」と私。相手は、「でも、避難所にいる人は地元での生活があるひとかも知れないし、倫理より、ひとりひとりが助かるよう避難所に残る人にも助けてくれる人がきっといるよう祈ることしか今はできないね」と言ってくれている。そうだね、本当に。

(※さきほどの激白の渦中では、Mさんの行動を賞賛するような書き方をしましたし、当時あの瞬間は自分に比べたらそう思ったけれど、冒頭にも書いたように二次災害を引き起こしたり、救助車両の通行を妨げる危険があったこと、社会的には非難されても仕方ない行為であること、もっと悪い結果になっていた可能性もある危険な行為だと思っています。繰り返しになりますが安易に礼賛、推奨する意図はありません。私が存じ上げないだけでMさんには何らかのボランティアや災害救助などの知識や経験がおありだったのかもしれませんし、同じことをしようとしても同じ条件は整わないし、同じ良い結果になるとは限りません。災害時にはまず何よりも自分を守ること、危険を避けることを第一に行動することが重要だと思います)

チャットログには何度となく「また揺れた」「うわ大きい」とあり、頻繁に余震が起きていたことも思い出しました。そうだった、本当に異常な空気に晒されながらの数日間だったな。

お母さんとのメールを見ると(電話で真っ先にオットの無事の帰宅を知らせた後)、こんなことを書いていた。
「今日昼過ぎには、オットのいた地域へ続く下道も補助物資以外は全面封鎖になってしまったそうですし、鉄道も、常磐線は運行を開始しているものの一部だけで、レールがはずれたりしているので上野行き電車の復旧の見込みは立っていないそうです。Mさんの行動がなかったら、もしくは数時間遅かったら、いつ帰ってこれたか判らないですね。昨夜のうちに出発すると聞いた時には心配でたまりませんでしたが、本当に、道中何事もなくて良かったです」「火山噴火の時もそうでしたが、今回も、お母さんと連絡を取り合えたことでとても心強かったです。本当にありがとうございました」
そうなんですよね。できるだけ前向きな情報を集めて希望のある方向に伝えようと腐心したことは、しんどいだけじゃなく自分を持ち上げる役にも立ったし、お母さんとそうやってやりとりができて支えられた部分ももちろんあって。

そんなふうに、いろんな人といろんな言葉や気持ちをかわしながら、自分が形作られているのだな、きたのだな、と改めて思います。

ーー

オットも知人が心配してくれたみたいに今後の夫婦としての信頼関係に致命的な亀裂が、みたいに気にしてないようだし。聞いてないけど。たぶんあの前後仕事忙しすぎてあんまり細かいこと覚えてないみたい。私にとってはその前と後の人生を灯台のようにくるりと昏く照らし出しくっきりと消えない影を焼き付けるような出来事だったんですけどたぶんあんま覚えてない。もしも改めて聞いてみたらきっとそういえばあひるたんどちゃくそキレ散らかしてたな、オットくんかわいそじゃね?って言うと思う。その程度か。
まあ、他ならぬオットがその程度で済ませてくれているのならいいんじゃないかな、と思えるようになってきました。この10年で。

10年の間に1人2人にぽつぽつと話したこともあるのですが(話すともれなく号泣するので人と場所をすごく選ぶ)いずれもこんな私を責めずに聞いてくれて、寄り添ってくれて本当に救われた。ありがとう。だから、いいんじゃないかな、と思えるようになってきました。
そして間違いなく、子育てには抑止力として役立っています。3年後の2014年に子供を産み、育児の節々で爆発しそうな時はちょくちょくあっても、あかん、と思える。この自分を放出しちゃいかんと。間に合って本当に良かった。この経験が刺さっていなければ出しちゃってたかもしれない子供に。恐ろしい。

ーー

最後に、相変わらずのど長文を、ここまで読んでくださったあなたにも、ありがとう。すいませんもうほんと突然の激白で。あひるちゃんのアナザーフェイズ。一松み(ふいのやめろ)。もともとこういうひたすら暗い心情吐露や記憶の奔流を滔々と書き綴ってしまう闇な部分もありまして。当ブログには出さないようにしていたんだけど、ここ数年はこういう赤裸々な心情吐露にもそれなりの意味があるんじゃないかと思うようになっていて。個人的な体験の記録も大事じゃないかと。別の日記サイトに書いていたこともあったんだけど、自分のログとしてどこかに積み重ねて残していくのなら、やっぱりここかな、と思いまして。いつもと温度差ひどくてあれなんですけども!

読んでくださって、本当にありがとうございます。

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2022年3月にちょっと追記。
震災当日、オットくんが撮った写真。2012年の記事より。

商店街の壁時計、本当に地震発生の時刻で止まっている。
hitachi311-clock

一帯が停電で、夜の暗さが尋常でないことが伝わる一枚。
hitachi311-night


ハートをつける ハート 287

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