観てきました。
映像作品としての完成度がすごく高くて、固唾を飲んで夢中で、集中して、時間を忘れて見入ってしまいました。
カメラ!撮り方がうまい。素材選びが雄弁。編集もシンプルで、静かで、伝わってくる。例えばですが、安倍総理の街頭演説の風景で、警備している一人の警官の姿に焦点を合わせたり、道を歩く小さな女の子のあどけない足元や、抱っこされている赤ちゃんの頭の端がほんの数秒映ることによって、そこにどんなたまらない気持ちが乗るか。
映画の中で何度も、気のおけない友人たちが代わるがわるカメラ(iPhone?)で撮り合う姿が出てくるので、編集もそんな感じで伊藤さんご自身やご友人たちで自主制作的にやったのかな、と思ったら、エンドロールで「編集」の項目のお名前は一人だけ、山崎エマさんという方で。検索してみたら、ああ!ドキュメンタリー映画『小学校〜それは小さな社会〜』の監督をされた方かあ!まだ見れてないのですが気になっていたのです。
■アカデミー賞ノミネート、ドキュメンタリー監督・山崎エマが語る日本の「小学校」という“小さな社会”から見えてきたこと WIRED.jp
以下、私がこの映画を観て考えたこと、感じたことを書いていきます(5500字)。
色々な理由から迷ったのですが、観た人たちの感想に、「辛い箇所も多かったけれどそれだけじゃなかった、観て良かった」という前向きな言葉がとても多かったことに背中を押されました。劇場に観に行って良かったです。パンフレットも買いました。これから読む。
(以下、映画の内容や、私自身が経験した性被害にも触れる記述がありますのでご注意ください)
土曜の昼間で、私と同じ50代かそれ以上に見える男性が多かったのが少し意外でした。皆さん壁に貼られた特設コーナーの解説文を熱心に読んでらして、この作品への関心の高さが伺えました。席は半分以上埋まっている感じだったかな、上映が終わってロビーに出ると、入れ替わりの夕方の回も同じくらいの人が待っていました。
観ている途中でぼんやりと重く垂れ込めてきた考えは、たまたま加害者が時の総理と親しくて、だからこそ海外で先に注目されるほどの大ごとに発展したけれど、世の中にはもっと多くの、名もない「上司」や「同僚」「先輩」や「夫」あるいは「親族」男性からの加害が当たり前のように横行していて、今も裁かれずに野放しになっている現実、でした。それが重くのしかかってくる。
伊藤詩織さんほど懸命に、必死で、何年もの間訴え続けてようやく民事での勝訴を勝ち取ることができても、加害者当人は野放しで、いまだに「誤解がある、非常に残念だ」と公の場で堂々と言っている。そういえば私の例の名前を言わないようにしている(意味があるのかもわからないけれど検索避けです)元同居人も、伊藤詩織さんのことを「刑事で不起訴になったからって民事で訴えることにした人でしょ」と言っていたことがありました。不起訴になったからには第三者から見て事件性が証明されなかった、つまり事件ではなく単なる痴情のもつれだという結論が出たのに、引っ込みつかなくなって今度は民事で訴えるという悪あがきしてる人、と。
私は当時(おそらくこの件が世間で注目され始めた2017年頃だったと思う)、そこまでして彼女自身に何の得があるの?と聞いた気がするんだけど、「注目されたいんじゃないの?実際そうなってるし」と。「上昇志向の強い人だったんでしょ?」とも言っていた。
そんなふうに思っている人もきっと多いんだと思います。私もそうなのかな、そうじゃないとは言い切れないしな…と思っていた。まさにブラックボックス、藪の中で、どちらが本当のことを言っているのかわからない。だから考えないようにしてきた。
今回この映画を劇場で観ようと思った経緯は色々とあるのですが、ひとつは、やっぱり応援したかったから。こんなことがあってはならないと思ったから。
それから、本当は、それでも個人的に、今の私が観るにはきっと辛い内容だから、まだ観れないな、やめておこう、とも思っていたんです。
ある日突然一方的な暴力に晒され、人生を揺るがされる。被害者として自分の窮状をあちこちに訴えても、ままならない。事態が好転しない。なんなら諦めるように、賢く立ち居振る舞うように説教される。なぜ?なぜ!!
そういう状況に陥ってすでに一年以上、数え方によってはもっと長年留め置かれ擦り減っている私が、今の伊藤詩織さんをとりまく激しい糾弾とやんわりとした批判の嵐の、渦中にある映画を観る勇気が持てなかった。
配信などで、辛かったら停止できる環境で観よう、と思っていました。映画館で席を立ちづらい状況に自分を置くのが怖かった。
でも、実際に映画が上映され、観た人たちの感想が流れてきて、支援者だったはずの弁護士たちからの苛烈な詩織さん批判や、それに対する懐疑的な意見を読めば読むほど、こんなことがまかり通っていいのか、と思うようになって。
「海外では高く評価されたけれど、制作手法に問題があったらしい」「性被害者の人たちを無断で映したらしい」「支援していた人たちが次々と離れていったらしい」「新たについた弁護士まで辞任したらしい」
こんな話が次々と断片的にツイッターに流れてきて、それに対して「もし本当だとしたらそれはひどい、彼女は間違ってる」という書き込みも散見され、「やっぱり彼女の側にも何かしらの問題はあるんだろうな」、と私も”何となく””詳しくは知らないけれど”思っていました。
でも、少し立ち止まって調べてみると、事実として確認できない話や、そもそも事実ではない情報も多いことがわかってきた。例えば新たについた弁護士まで辞任した、という話は、少なくとも私が調べた限りでは事実とは言えませんでした。
そのあたりでふと、彼女は今いくつなのかな、と検索してみまして。何歳の時に被害にあったのかな、と。
そして、2015年、25歳の時だと知り、そこから36歳の今まで10年以上、闘い続けてきているのか、と改めて、衝撃を受けまして。
こんな若い女の子が、あんな酷い目に、一次被害はもちろんのこと長く広範囲な二次被害に、遭い続けているのか、と。
あの、今更ですけど、実際にレイプがあったのか無かったのかは、私は議論に値しないと思っているので俎上に上げません。なぜなら自分にも似た体験があるから。私だけじゃない、友人からも聞いたことがある。女性であれば誰でも多かれ少なかれ彼女と同じ目に遭っているという、反吐が出るような現実を肌身に染みて知っているからです。
だからこそ、こんなことを許してはいけない、と思って、映画を観に行こう、と思うに至ったのでした。
観て思ったのは、まず、彼女がとても、生き生きして、溌剌としていたこと。友人たちと楽しそうに笑って、踊って、おどけて、とってもかわいらしかった。こんな明るく、生命力に溢れた、普通の女の子に、日本中がよってたかってあんな酷いことをし続けてきたのか、と、じわじわと、ひたひたと、生々しく、痛々しい思いが迫ってきました。
と同時に、本当に面白かった。といっては語弊があるかもしれないのですが、映像作品としてすごく、興味深く、だれずに最後まで集中して観ることができました。カメラを構えて映像を撮った人たちの功績か(伊藤詩織さんとの信頼関係の賜物か)、編集した人の才覚か、音楽も良かった、人物や出来事の映像や音声だけでない、桜の花びらや(ここにも重苦しい意味があることが終盤明かされます)、何気ない部屋の天井の隅など、事物を映したカットもとても印象的だった。
一方で、このドキュメンタリーが完成した後の騒動を知っている側としては、証言者として出てくるタクシーの運転手さん(連絡が取れないらしい…)、捜査官A(日本によくいる中高年男性の典型的最低最悪発言多数)、ドアマン(この人は今はどうしてるの…?ほんとにまだ味方なの…?)、弁護士や支援者だったはずの女性たち(私は彼女たちの顔を知らないので、この人かな…あの人かな…この人は今はどうなのかな…)と、いちいち気になって…。
辛い目に遭い、分厚い司法と政治の壁に阻まれたけれど、寄り添ってくれる人たちのおかげでなんとか勝訴を勝ち取った希望のあるラスト…とは全然なっていなくて。辛かったですね。私もつい自分の、彼女に比べたらもっとミニマムな苦境に(苦境に貴賤はないけれど)照らしてしまうと、私もこのままいって離婚が認められたとしてもそこは全然終わりじゃないので。そこでやっと慰謝料や財産分与の話に進める。養育費や面会については10年続く。暗澹たる気持ちになります。それでも、離婚がひとつの結節点になるのかな、とも思う。私も自分の弁護士さんとハグしあう日がくるのかな…でもその後あんなことになったら辛すぎるな…。
と、色々と考えてしまったけれど、観て良かったです。勇気をもらえた…というのとはちょっと違うかもしれない、なんて言ったらいいのかな。単純に、上質な作品に触れた喜びを感じました。そして、その作品を生み出した人のエネルギーを受け取れた気がします。自分だけのことで終わらせたくない、という、このクソな世の中を変えたい、動かしたい、というエネルギー。いつもたくさんのフィクションから、その作り手さんたちから受け取っているものを、今回も受け取ることができて、「観て良かった」と思えました。
ーー
以下、つらつらと思いつくままの感想。
「画面をスクロールしたら加害者の画像が出てきそうになって、それを見ただけでパニックになった」と彼女が語る痛々しいシーンがあるのですが、すごくわかる、と思いました。私もこの一年以上ずっと、近所で某該当者に似た人を見かけるだけでぎくりとするし(実際に本物に出くわすこともままある)、年末ネットワークトラブルでうちに上げざるを得なかった時は本当にきつかった(本当に上げざるを得なかったんだろうか…該当者を頼りにしてしまう無意識の刷り込みや洗脳からまだ抜けていないのではないか…等煩悶葛藤もしてしまう)
お母様が電話で、相手が不起訴になったことを「なんで!?そんなのおかしい、悔しい!」と大きな声で怒ってくれる場面に、すごく救われました。そうだよね、おかしいし悔しいですよね。私もそう言ってもらえるとすごく救われる、んですけど、「もう忘れて前を向かないと」とか「いつまでも該当者さんに執着してちゃダメだよ」とか「まだ決着ついてないの?」とか言われてしまうこともあり…もっとやりようがあるんじゃない?という。なので、あんまり人に話さないようになりました。もともとあちこち広範囲には話してなかったつもりだったんですけど、より慎重に。
(ちょっと追記修正)
(それは自衛のためだけでなく、私が相手を傷つけてしまう危険もあるから。今回色々と葛藤の末にチケットを予約した直後のタイミングで、長年親しくしてきた人から自分には荷が重すぎて会うのが辛いです、と連絡がきてしまうという出来事が重なってしまって。すいませんほんとに直近でショックが大きくてついここにも書いてしまったのですが、以下の数段落は少し書き方を改めました)
でも、仕方ないのかもしれない。酷い目に遭っている人に向かって、酷いね、辛かったね、とだけ言う、そして手放す、って難しいことなんだな、と痛感しました。私もこれまで言っちゃってたな、良かれと思って良かった探しとか(でもこうだったらもっと大変だっただろうから、そうじゃなくて良かったよね)、アドバイスとか(こうしてみたら?ああしてみたら?)、平均化?とか(相手もそこまでのつもりじゃなかったのかもね)。
なぜならそうしないと、受け取りすぎてしまうから。ボールを持ったままにするのが怖くて、重くて。私もつい、そうやって投げ返してしまっていたな、と思います。
だからこそ、ただ酷いね、酷いよ、許せないよ、あなたをこんな目に遭わせる世界が私は憎いよ、とだけ言ってくれる人の存在が、すごくすごく有り難いです。はるな檸檬さん『ファッション!!』の通りで、なんだそれは!酷いな!!とストレートに怒ってくれる人って意外に少ない。
と同時に、寄りかかりすぎないように、肝に銘じないとな…とも思う。人はみんなそんなに頑丈にできていない。重いものを乗せたらよろけてしまうし、それを避けようと手を引っ込めるのも自然なことで、その人のせいじゃない。私のやり方が悪かったから…申し訳なかった…と自分を責めてしまう部分もどうしてもあるけれど、きっとそれだけでもない。誰だって自分を護る権利も、必要もある。
(追記修正、以上)
と、そんなことを色々と考えしたためた今回のこの文章は、映画を観終わってすぐに帰宅したらまた雑事に紛れて書きそびれてしまうだろうから、久々におしゃれなカフェに行きたくて好きなお店にまで足を伸ばして書いたのですが、このカフェがそういえば実は私にとっての20歳頃のデートレイプが起きたホテルの跡地に建っているのだった。最近気づいてびっくりしたのです。もともと好きだったお店が駅近くに2号店を出して、行きたいな〜と思いつつ行きそびれて一年以上経ってしまって、ようやく行ってみたらあのホテル跡じゃん!!と。裏ぶれた隠微な雰囲気は欠片もなくすっかり様変わりして、風通しの良い素敵な憩いの場になっていました。
あの30年前からこんなにも時間が経ち、その間に私や彼女のような目に遭った女性たちは人口の半分もいて、それでもこれは犯罪であり、人権蹂躙なのだと声を上げることができるようには辛うじてなった、事件として取り沙汰されるようになっただけでも進歩と思わなければならない歩みの遅さにも憤りを覚えるけれど、私たちは怒っていいし、諭したり嗜めたりしてくる人がいたとしても、賛同してくれる人、一緒に怒ってくれる人も確実に増えている、と、ちょうどあの日と同じ夕暮れ時の薄闇の坂道で振り返って思いました。あの日の20歳の私は場違いにぶつけられた「性欲」ーそう呼べば免罪されるといまだに広く思い込まされている単なる加害ーに呆然と立ち尽くし、まさにこの坂の途中で一度立ち止まったのに、声を上げても無駄だと諦め、うなだれてホテルの部屋まで自分の足でついていってしまった。私たちはこのどす黒い箱をたたき壊していい。なす術もなく取り込まれるだけが道じゃない、蹴破っていい。たとえ壊れなくても。拳から脚から赤い血が流れ出たとしても。それで当たり前なのだ。私たちは誰も頑丈じゃないのだから。それでも、傷だらけでもいつか塞がる、そうして笑いあうことができる。
私たちは、意外と頑丈。
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関連リンク集は別記事にしました。


3
一読して、取り敢えずひと言だけ。
私たちは意外と頑丈だけど、それが当たり前と思って甘え寄り掛かり威圧し獣欲をぶつけて来る奴らの、免罪符には決してならない。
人の考えは変わりやすくて反面堅固だけど、私は今も、とても怒っています。
被害者ヅラする加害者たちに。
迷惑ヅラする人たちに。
いろんな人たちに言いたい。
あひるさんは、あんたらの承認欲求を満たす為の道具じゃない。
殴り放題のサンドバッグでも、ガラスの向こうの安全圏から自分の境遇をこれよりマシと言い聞かせる為の物語でもない。
全て現実で、生身の人間の叫びだという事を、ボロボロになりながらも周囲を気遣かって、ほんの一部しか地獄を覗かせていないという事を。
重過ぎてつらい、というそれは、氷山の一角に過ぎないと。
あーもうごめんなさい、感情にまかせて(いつもだが)時間ないのに書き出したら止まらなく…。
でもこれだけは、どうしても。
味方は、ちゃんといるから。
私はこうして無責任に怒る事しか出来ませんが、味方でいたいです。
k.satさん
わー、すみませんあの、本文少し修正しました。映画や伊藤さんを非難する人たちと、私の個人的なことを色々いっぺんに書いてしまったのでわかりづらかったかと思うのですが、私の話が重くて聞けない、という人がいるのは当たり前だと思うのです。直接会って涙ながらに延々辛い話をされるのはしんどくて当然で…。私も友人たちを傷つけたり失ったりしたくないから気をつけていたつもりだったのですが、年に2回もないし、このくらいなら大丈夫かな…と思ってしまい、それこそ見積が甘かったのはこちらの方でした。
アドバイスを返されるのも、聞くのがしんどいという無意識の意思表示かもしれないし、だから私も自然と控えるようにしているのかもしれません。むしろもう無理と言った人は、他の人たちのようにアドバイスを返すことで身を守ることができなかったから正直に言うしかなかったんだろうな、と。
あの、『幸せは食べて寝て待て』で知人の愚痴電話を断ったエピソードのように、自分がしんどい時まで誰かのケアをしないで良くて。私も断る側になったことありますし…。
k.satさんが火を吹いてくださったのはきっと、大元の元凶である某元同居人に向けての怒りが燃え上がったからですよね。すみません燃料投下して、でもありがとうございます…!
全て現実で、生身の人間の叫びだという事、そしてそれが社会においても氷山の一角に過ぎず、我々の人生に直結している事、それをずっと新鮮に怒り続けて、伴走し続けてくれている友人もちゃんといます。k.satさんのように。ほんとにありがとうございます。
わーすいません、怒りにまかせて書き殴ってしまって、あひるさんを困惑させてしまって。
いい歳なんだから落ち着いて考えようよ、自分。
もう無理、と自分を守る為に言わざるを得なかったご友人を、責めても仕方ないし、ましてや私が怒る筋合いでもないですよね。
自分に置き換えて考えれば、つらい話を聞かされるのは、親しければ親しい程つらいもの。
その事をあひるさんはちゃんと分かってて、自分のせいだな、申し訳なかったと飲み込んでいらっしゃるのも、読めば分かるように書いてらっしゃるのに。
瞬間湯沸器(懐)みたいで恥ずかしいです。
そんな私にありがとうだなんて!
女神ですか?
ますます惚れてまうやないかーい!(叫)
今年の目標は「カキコミは2回以上熟読してから」です。
早とちり申し訳ありません。
でもやっぱり、怒れる自分でいたいのは変わらないんです。
少しでも、あひるさんが安心して生きられる扶けになれたらいいのにな。
道のりは遠いです。
夏にはアラカンの仲間入りなのに(泣)
k.satさん
あらっやぎさんゆうびん状態に!こちらにもコメントありがとうございます!
先ほどのコメントのお返事にも書いたのですが、相手の事情には忖度せず、私が傷つけられたことにただストレートに怒ってくださったのも嬉しくて有り難かったですよ…(涙)
よりわかりやすいようにちょっと整えたので、伝わるようになったのかと思います。きっと早とちりじゃなく、そうは言っても悲しい…という私の気持ちをキャッチしてくださったんじゃないかと。ありがとうございました。
怒れる自分でいたいのは変わらない、ぜひそうしてください!すごいことなので!
夏にはアラカン、おお〜先輩〜。
あの…k.satさんにもう一歩甘えて漏らさせていただくと、私にそれを言った人はもう一回り以上上の方なんです…だから私もつい甘えてしまったんですが、何歳になっても本人が抱えている辛さはあって、明るく元気に見えたとしても外から推し量るのは困難だな…と…。
本当に申し訳なかったし、関係が途切れてしまうのは悲しいのですが、その人が私と離れることで安心するならその方がいいな、と思います。