福知山線脱線事故から13年。関連記事と、過去に調べた記事のリンクを貼っておきます。
■福知山線脱線事故から13年 ある2人の社長の「懊悩」と「決断」ーJR西日本と日本スピンドル製造 | 文春オンライン
上のリンク先で紹介されている本『軌道』の著者、松本創さんによる記事がこちら。
■JR西日本の「天皇」が初めて私に語ったこと 福知山線事故から13年ー事故から13年に思う日本社会の『軌道』 | 文春オンライン
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ここからは5年前、2013年の記事です。
■実話な。JR福知山線脱線事故、長谷貴將さんっていう救急医療のスペシャリストが居た。:DDN JAPAN
上のリンクに衝撃を受け、自分でまとめた記事がこちら。
■2013-02-20 JR福知山線脱線事故、長谷貴將さんっていう救急医療のスペシャリストが居た。
13年前、事故当時に書いた記事。
あの凄まじい事故現場で救命に尽力した医師が亡くなっていたこと、しかもその亡くなり方も、どうにもやりきれず、この件は、日々流れていくニュースの中でも折に触れて思い出す、自分の中に重く残っているもののひとつとなっています。
松本創さんの本『軌道』は、医師、長谷さんのことには触れているのだろうか。
運転士個人のミスである、と徹底して組織としての責任を認めようとしなかったという事故当時のJR西日本の責任者井手氏と、知識と経験と熱意でもって人命救助という仕事をし続け、現場で生き生きと働いていたはずの長谷さんをうつと自死にまで追い込んだ病院、医局という組織。2つの問題は繋がっている気がしてなりません。
しかも、長谷さんのご遺族が、事故後長谷さんは病院から講演活動などを指示され、その過重勤務が原因で亡くなったとして病院側を相手に訴訟を起こしていたそうですが、それもご遺族である長谷さんのお父様が亡くなり、引き継ぐ人がいなかったから、という理由で取り下げられたという…どこまでも胸塞がれる事実が並んでいます。
事故が2005年、長谷さんが亡くなったのが2006年、訴訟取り下げが2009年(それが小さなニュースになっていたのが2010年)。
今年は2018年。少しでも何かが変わっていくように、過去から学べるように。また少しリンク先からの情報をまとめておくことにしました。
■JR福知山線脱線事故のドキュメンタリを、ナショナルジオグラフィックでやってた 続・妄想的日常
以下、当時のニュース記事からコピペだけど。
・救命活動が全国に知られ、病院側の指示で講演や会議への参加などが増えた。
・病院は〈広告塔〉として、講演や研修活動に取り組むよう指示した
・病院側は長谷さんの赴任前から提示していた 「(救命救急センターに)2人の部下を置く」という条件を実現させなかった
・このため、多忙を極めた上、同僚から中傷を受けるなどして、うつ状態に追い込まれていた
・講演や会議などの対外活動が増えると、やっかみとも取れる不評が院内から噴出。同僚医師からは「それでも救急医か」 「こいつの言うことは聞かなくていい」などと罵倒された
・亡くなる前日には、長谷さんが準備に心血を注いできた、済生会主催の学会で英国人医師を招請する企画をめぐり、事務担当者と対立。それまで企画を支援してきた病院幹部からも「一晩頭を冷やせ」と冷淡な態度で突き放されたことで決定的に追いつめられた遺品の中から見つかった長谷さんの手帳には、スケジュールがびっしり書き込まれていたという。長谷医師は、脱線事故の現場を振り返って
「自分が死んでもいいと思っていた。とにかく被害者を助けたかった」
と話していた。本当は長谷医師は、公演や会議なんか置いておいて、いつでも現場に居たかったんじゃないだろうか。
■原告側が訴え取り下げ 滋賀の医師自殺訴訟 – 滋賀のニュース – 都道府県別 – 47NEWS(よんななニュース)(リンク切れ)
尼崎JR脱線事故で救助にあたった済生会滋賀県病院(栗東市)の救命救急センター長だった長谷貴將さん=当時(51)=が2006年5月に自殺したのは、病院から講演活動などを指示された過重勤務が原因として、父親が病院を運営する社会福祉法人恩賜財団済生会(東京都)に1億円の損害賠償を求めていた大津地裁の訴訟で、原告側は7日までに訴えを取り下げた。 原告代理人の弁護士は「父親が亡くなり、訴訟を引き継ぐ人がいなかった」と説明している。取り下げは昨年12月7日付。
2010/01/07 22:51 【京都新聞】
次は、一両目に乗っていて長谷さんに救助されたかたの、事故直前からリハビリまでの克明なレポートです。
こちらの9ページ目の、長谷さんにお礼を伝えに行かれるくだりが、改めて読み返してみるとよりいっそう悲しいです。ここに繰り返し出てくる、滋賀県の病院の経営母体「済生会」を、長谷さんのお父様が訴えたわけです。
■2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」
5月のある日、その記者は、滋賀県のとある病院の医師チームが尼崎の脱線事故現場に直接駆けつけ、「がれきの下の医療」を施したことを取り上げようと、ある医師を取材していた。その際、医師の話を聞くにつれて、先生がお話されている点滴した相手の男の人って、年格好や状況からして、ひょっとして同じ会社の吉田のことではないのか───という思いがしたらしい。そして、記者が知っていた私の事故当時の状況と突き合わせると、「やっぱりそうですね!」となったという。
その記者からもたらされた情報によって、あのとき聞いた「済生会○○病院」の○○部分は「滋賀県」、つまり「済生会滋賀県病院」であり、私に「がれきの下の医療」を施してくださったのは、この病院で救命救急センター長をされている長谷貴將(はせ たかのぶ)氏であったということが明らかになった。
長谷先生は、誰に指示されたわけでもなく、現場近隣の病院は負傷者の受け入れで混乱しているだろうという、自らの判断によって、事故現場から大阪府・京都府を挟んだ滋賀県栗東市にある病院から、名神高速で1時間をかけて、わざわざ現場にまで駆けつけてくださったのだという。
あの現場では、はきはきと言葉を発せられていたこともあり、先生は非常にお若く見えたが、改めてお会いしても、救命救急センター長という要職にありながら、活力みなぎる情熱的な先生であると感じた。そして、おそらく昼休みと思われる貴重な時間を割いて、様々なことを話してくださった。
現場にはガソリン臭が立ちこめていたということも、初めて知った。長谷先生のチームは、13時に現場に到着され、およそ1時間後の13時56分、1両目に生存者が取り残されているとの情報がもたらされ、消防から現場への進入を要請された。そして、マンションの駐車場ピットに入る際に、強烈なガソリン臭がするのに気付き、「引火したら私も終わりだな」と思われたという。劣悪な環境の下、駐車場ピットに入って作業されていた医師やレスキューの方々は、まさに自らの命を懸けて、我々を救ってくださっていたのである。
(中略)
あのとき現場で動いてくれていた人たちは、自分の職業の枠にとどまらず、使命感や人間愛をもって、目の前の難題に全力で立ち向かった、まさにプロ中のプロ集団であった。
長谷先生は、医師でありながら、私たち受傷者と同じ目線の高さで話されるのが印象的であった。あの日、あの現場でそんな長谷先生に巡り会えたことは、私にとって間違いなく大きなことだったのである。
こんなふうに活力に溢れ、職務を全うしていた人をね、自死に追い込むなんて、あってはならないことだと思うのです。
JR西の若い運転士さんのように、思考停止させられ、尋常でない危険な運転をするまでに追い詰められるようなことも同じく、あってはならないことだと思う。ましてやそれによって107人もの人が亡くなるようなことも。
そこまで追い詰められる前に転職すればよかったんだとか、結局は自己責任だとか、そんな言い方をする人もいますが、そういうことじゃないと思うのです。
これは誰にでも起こりうることで、誰の家族にも起こりうることで、他人事じゃない。こんな理由で命を絶つような人が、それによって家族を失い、喪失と後悔に苛まれるような人が、これ以上出ないように。
個人にできることは少ないですが、少なくとも、よくあることだとか仕方がなかったと納得して忘れるのではなく、こんなのはおかしい、という憤りを持ち続けていたいです。
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こまぎれに引用してしまいましたが、ぜひ全文、1ページ目から読んでみて頂きたいです。ただし、事故の生々しい描写が続くのでご注意ください。
■2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」(導入ページ)
書籍がこちら。